日蓮正宗大石寺67世阿部日顕法主は、法主に登座した当初は、創価学会員を積極的に脱会させて日蓮正宗寺院の信者にするという正信覚醒運動(正信会)の路線を、固く禁止していた。

ところが、1991年の宗創戦争の開戦によって、今度は阿部日顕は、逆に創価学会員を積極的に脱会させて日蓮正宗寺院の信者にせよなどと号令している。

67世日顕7


又、阿部日顕は、「正本堂の意義の改訂」「国主立戒壇」と、これまた日蓮正宗大石寺がかつて破門にした顕正会(妙信講)と、ほぼ同じことを言い出し、しかも顕正会が強力に要求していた「正本堂の取り壊し」「『戒壇の大本尊』なる板本尊の正本堂から奉安殿への遷座」を本当に実現させてしまった。

もっと言うと、阿部日顕が1992年に行った「池田大作の宗門追放」は、かつて正信会も顕正会が、阿部日顕に要求していたことだった。

 

さらに阿部日顕は、創価学会・池田大作を破門にしておきながら、その一方で池田大作・創価学会が長年行ってきた強引・執拗な折伏活動・罰論・堕地獄論・組織信仰活動・団体宗教活動・指導性といったものを、そっくりそのまま模倣して、「法華講」にやらせている。

池田大作が描いてきた「信心の功徳」「誹謗の罰」「信心の組織」なる絵空事・虚構を、池田大作と敵対する阿部日顕・日蓮正宗がそっくりそのまま模倣しつづけているという異常な光景。

しかもこれだけ、かつて自らが破門にした団体のやり方をそっくり模倣し、そっくり同じことを言い、そっくり同じことをしておきながら、破門にした理由や意義がほとんど失われているにもかかわらず、『破門』そのものは今でも有効だと言い続けている日蓮正宗。

こういうふうに、とことんまで突き詰めていくと、日蓮正宗が言うところの『破門』とか『擯斥』とか『除名』なるものは、一体、何なのかということになる。

 

さらにオマケがついていて、日蓮正宗が破門にした顕正会、正信会、創価学会が強力に要求していた「阿部日顕の法主退座」だけは、阿部日顕はことごとく拒否して27年もの間、法主の座に居すわりつづけた。

2004年になって日蓮正宗宗規に「法主は遷化(死去)又は自らの意思による以外はその地位を退くことはない」との一文を入れさせ、2005年になってようやく大石寺法主を退職した。

あたかも「私は法主を退職するが、辞めろと言われたから辞めるのではない。自分の意思で辞めるのだ」と言わんばかりである。2006年の法主退職時に、阿部日顕は84才になっていた。満80才を超えて現職法主にあったのは、大石寺の開祖・日興、「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作した日有、阿部日顕の三人だけである。

 

さらに不思議なのは、大石寺が「正信会化」「顕正会化」したことで、大石寺が正信会や顕正会の『破門』を解くどころか、正信会や顕正会から日蓮正宗大石寺にカルトサーフィンする信者がぞくぞくと出ていることである。これなんかは、外から見ていると実にわかりにくい現象なのだが、平たく言うとこうなる。

創価学会が嫌い⇒創価学会を脱会して日蓮正宗寺院の信者になる⇒寺院の信者で創価学会批判⇒日蓮正宗大石寺が『親創価学会路線』に転換⇒大石寺の『親創価学会路線』が嫌⇒正信会寺院に移籍して創価学会批判⇒日蓮正宗大石寺が『反創価学会路線』に転換⇒大石寺に参拝したいから再び日蓮正宗寺院に移籍

だいたいこんな図式である。つまり日蓮正宗大石寺は、『親創価学会路線』のときはイヤだったが、『反創価学会路線』に転換したため、戻ったということ。その理由は、大石寺に「戒壇の大本尊」が格蔵されていて、その板本尊に参拝したいからということだ。

逆に正信会のほうは、主張の筋は通したものの、「戒壇の大本尊」「法主の血脈相承」という『権威』がないばかりに、信者は大石寺側に流れていくわ、住職同士の意見対立によって正信会を離脱する僧侶が出るなど四分五裂化しているという皮肉な現象が起きている。

 

こうして考えてみると、日蓮正宗が産み出している不幸の根源は、大石寺の「戒壇の大本尊」「法主の血脈相承」という、大石寺が「水戸黄門の印籠」のように、最後の切り札として売り物にしている大石寺の宗教的『権威』。

そして、この本尊を近世になって強引に布教して信者を拡大し、しかも宗教界のみならず政界にまで進出するほどの力を持った「池田大作」・「創価学会」という宗教的『権力』ということではないか。この二つの「枢軸」のようなものが中心になって、ありとあらゆる不幸が産み出されている、と言うことができよう。