大石寺大客殿で行われていた深夜230分からの丑寅勤行の五座の勤行というのは、日蓮正宗寺院本堂や信徒宅で行われている五座の勤行とほぼ同じだが、法主は終始東向きに座っている等、若干の違いがあるだけで、あとはほぼ同じ。

丑寅勤行3


法主が座る大導師席にもマイクはあるが、副導師の僧侶がハンドマイクを握って、読経をリードする。面白いことに、大石寺のみならず、日蓮正宗寺院の法要・勤行における読経では、木魚・木証等は一切叩かない。

他宗派の寺院での読経では、木魚・木証を叩くということが常識的に行われているのだが、日蓮正宗の寺院の読経で木魚・木証を叩く姿を一度も見たことがない。これは大石寺でも同じ。

他宗寺院で読経で木魚・木証を叩くのは、もちろん読経の声をそろえるためなのだが、それでは日蓮正宗寺院では、マイクを導入する前は、読経の声をそろえるために、どうしていたのか、という疑問が沸く。

五座の読経のあと、唱題に入るが、大客殿内陣の両脇に備えられた太鼓の前に僧侶が座って、読経の声に併せて太鼓を叩くのだが、太鼓を叩く音調が、これまた日蓮宗寺院で太鼓を叩く音調と違っているように聞こえる。

唱題の声も、日蓮宗では南無妙法蓮華経を「なむみょうほうれんげきょう」と発音するが、日蓮正宗では、「なんみょうほうれんげきょう」と発音するので、必然的に太鼓を叩く音調もちがってくる、ということか。

 

さて五座の勤行が終了すると、法主は、大導師席の後方に設えてある「戒壇の大本尊」なる板本尊遥拝のための祭壇(遥拝所)に移って、読経・唱題がはじまる。この読経は通算六座めということになる。祭壇の先は、通路のようになっているように見えたが、その先は、深夜であったため、暗くてよく見えなかった。

「この先はどうなっているんだろうか」と興味があったので、昼間に大客殿に入ったとき、見てみたら、遥拝所の祭壇の先は、ガラス張りになっていて、ストレートに奉安殿が見えるようになっていた。大客殿が落慶した1964(昭和39)年当時は、奉安殿で「戒壇の大本尊」御開扉が行われていた時代だから、祭壇の位置も、奉安殿に併せて設計されたと考えられる。

 

遥拝所の読経・唱題が終了すると、日蓮正宗大石寺67世阿部日顕法主は、参詣の信者のほうにスタスタと歩いてきて、「おはようございます」と一礼。

法主は、再び「大坊」「大奥」と書かれた提灯を持った小僧に囲まれて、大客殿を退出していった。

ここで時計を見たら330分。「丑寅勤行」開始から1時間が経過していた。

大客殿を退出した法主は、そのまま六壺に行って、六壺でまた読経・唱題。これで法主の読経は七座めになる。ここの読経・唱題は、法主随行の僧侶しか入れないようで、信者は、六壺の外から眺めているしかない。

この六壺の読経・唱題が終了したのが、午前345分すぎ。

 

日蓮正宗側の説明では、昔の大石寺では、天王堂、御堂、客殿、六壺…というふうに、丑寅の時刻に各堂宇を廻りながら、読経・唱題していたらしいが、江戸時代くらいから、これが客殿で一括して「丑寅勤行」が行われるようになったのだという。

 

それにしても開始から終了まで1時間15分というのは、いくらなんでも長すぎる。五座の勤行だけに区切って考えてみても45分かかっており、これだってまだ長すぎるくらいだ。これだけの長時間、毎日毎日費やすエネルギーがあったら、他の生産的なことに使ったほうが、よほど有意義である。

勤行に費やす時間を朝45分、夕25分としても1日約1時間10分。これが1ケ月で35時間。1年で丸17日半。70年で丸105日分そっくりそのまま勤行の時間に費やしていることになる。124時間のうち、8時間は寝たとして、起きている時間の7.3%の時間を勤行のためだけに費やしているのである。この勤行だけで、実に膨大な時間の浪費である。

それでは、日蓮正宗や創価学会の信者が、毎日欠かさず朝夕の勤行を行っているのかというと、決してそうではない。実際、信者自身が、勤行をよく休んでいることを認めている。

こういうのを、定着しているとは言わない。私は、「在家の読経は、文化として根付かない」という説に立っている。

実際は勤行をよく休んでいるのに、さも毎日欠かさず勤行をしているかのように偽るよりも、読経しないという、ありのままの姿で、そのまま文化として定着している方が、よほど人間らしいと思う。

誤解のないように附言すると、私は「在家は読経するな」と言っているのではない。それは、在家の方で、読経がおできになる方は、それは素晴らしいと思いますし、そういう方は、読経をおやりになられるのは、結構なことだと思います。でも、仏教寺院の法要で見聞する限り、そういう方は、非常に少ないです、今でも。

もうひとつの観点から言うと、鎌倉仏教の宗祖は、だれでもできる易行で、だれでも成仏できる、ということを説いているわけですが、日蓮も「南無妙法蓮華経と唱えれば、誰しもが成仏できる」と説いた。ならば、在家に無理矢理、読経しろと押しつけるのは、「南無妙法蓮華経と唱えれば、誰しもが成仏できる」と説いた日蓮の教えにも反しているのではないのか。

こんな長時間の勤行を毎朝・毎夕やらなくてはならない宗教なんていうのは、在俗の一般人の宗教ではないと考える。少なくとも、日蓮正宗という宗教は、大衆に根付く宗教ではないと考える。