1932(昭和7)年に日蓮正宗常在寺法華講「直達講」の講頭・三谷素啓氏が死去したことにより、後継講頭の選出を含めた直達講の再建懇談会が開かれたが、直達講顧問の牧口常三郎氏の思想に異質なものを感じていた直達講の講員たちは、牧口氏の講頭就任を拒否。直達講の講中そのものを解散してしまった、という史実については、ジャーナリスト・加固義也氏の論文をはじめ、日蓮正宗・創価学会の二重スパイ疑惑で有名なブラックジャーナリスト・大木道惠氏の論文の内容も、ほぼ一致している。

 

ところで三谷素啓という人物は、ずいぶんと日蓮正宗の折伏に熱心な人物だったようで、牧口常三郎、戸田城聖の他にも、藤本蓮城(秀之助)や佐藤重遠らを入信させている。

藤本蓮城(秀之助)とは、弾正講という日蓮正宗信者組織を作って、創価学会に勝るとも劣らない過激な折伏を展開。後に出家して日蓮正宗僧侶となり、牧口常三郎と同じく官憲に逮捕されて、獄中にて殉教死した人物。

佐藤重遠とは、三谷素啓が校長をしていた目白学園の創立者であり、理事長だった人物である。

 

さてその三谷素啓と牧口常三郎の関係なのであるが、三谷素啓の生前に、牧口は三谷と絶交している。これは、牧口常三郎と親交があった民俗学者・柳田国男が著書「故郷七十年」の中で、牧口が三谷と絶交したことを独白したことを明かしている。

しかし三谷と牧口はいつ絶交したのかについては定かではない。牧口の日蓮正宗入信は1928(昭和3)年。三谷の死去は1932(昭和7)年だから、二人の親交はそんなに長続きしなかった、ということになる。

創価学会・牧口常三郎1

 

ではなぜ、三谷と牧口は絶交したのか。これについて、ブラックジャーナリスト・大木道惠氏は、「新雑誌X19907月号に寄稿した「創価学会攻防史の研究」という名の論文にて、こんなことを書いている。

 

「直達講は、三谷亡き後、副講頭であった竹尾清澄を講頭として再出発しようとしていたのだが、実は牧口も戸田も直達講に参加していたのである。

牧口は昭和6(1931)に『創価教育学体系』の第二巻、いわゆる『価値論』を出版しているが、直達講の中において、その所説を強く主張していた。

当時の関係者によれば、三谷の存命中は三谷と竹尾から『価値論は日蓮大聖人の教義とは無関係である』と論破され、おとなしくしていたようであるが、牧口らは三谷の死後、竹尾から再三再四にわたって忠告されたにもかかわらず、価値論を主張し、講員をオルグして直達講の講頭になろうとしたという。竹尾は三谷が作った直達講が牧口らに攪乱されることを潔しとせず、『三谷講頭が亡くなられた以上、直達講はもう必要がない』として解散に踏み切った」

(『新雑誌X19907月号・『創価学会攻防史の研究』p122)

 

ジャーナリスト・加固義也氏は、論文「創価学会の虚像と実像」の中で、三谷・牧口の絶交について次のように書いている。

「牧口氏は直達講の顧問になるが、三谷氏との仲は数年にして、たちまち悪化する。彼は後に『三谷と絶交した』と柳田国男に語っている。その原因はひとえに『価値論』にあった。牧口氏は入信と相前後して、『価値論』の構想を練りはじめ、昭和六年三月に『創価教育学体系』第二巻の中にまとめて出版したが、三谷氏はこれを全然評価しなかった。それどころか

『これは日蓮大聖人の仏法に反する』

と厳しく批判した。判断力のある者は、『価値論』の誤謬にすぐ気づいたわけだが、この批判が牧口氏を激怒させた。彼は何回か三谷氏と激論を交わしたが、ついに理解を得られずに絶交するのである。」

(『継命』197981日号・『創価学会の虚像と実像』p6)

 

加固義也氏も、これが原因になって、直達講解散に至ったと書いている。

このように、三谷素啓・牧口常三郎の不仲・絶交から直達講解散に至る史実にかんする柳田国男・大木道惠・加固義也の各氏の記述は、ほぼ一致していると言えよう。