1940(昭和15)4月、日本政府は宗教団体法を成立・施行させ、宗教への統制と戦争目的の動員を強く押し進め、その一環として、各宗教教団の大同団結を強く促し、日蓮正宗に対しては、身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗との合同を求めた。

1931(昭和6)年の満州事変、1937(昭和12)年の蘆溝橋事件に端を発した日中戦争以来、日本は戦争への道を歩んでおり、すでに国際連盟脱退、国家総動員法公布、国民徴用令公布、日独伊三国軍事同盟、大政翼賛会発足…というふうに、政治情勢は進んでいた。

日蓮正宗では、当時の大石寺法主は62世鈴木日恭、宗務総監が水谷日昇(後の64世法主日昇)。そして隠居法主として59世堀日亨、60世阿部日開、61世水谷日隆が健在だった。

62世日恭


そして日蓮正宗寺院中野教会歓喜寮主管(住職)堀米泰栄氏(後の日蓮正宗65世法主日淳)は、1938年(昭和13年)10月に40才の若さで宗務院執事に昇進していた。

 

こういった情勢の中で、日蓮正宗は1941(昭和16)310日、日蓮正宗総本山大石寺御影堂にて、総本山をはじめ全国各地の末寺住職、総代、講頭をはじめとする有力信徒代表を集めて「僧俗護法会議」を開いて、難局に対処しようとした。

この僧俗護法会議に、すでに3000人を越える会員信者を有する日蓮正宗の最大規模の信者団体となっていた創価教育学会会長・牧口常三郎氏が招かれて出席して発言しているのである。

今の日蓮正宗が言うように、もし本当にこの当時、日蓮正宗と創価教育学会が断絶状態だったとしたら、牧口常三郎氏がわざわざ僧俗護法会議に招かれて発言などするはずがない。断絶状態なのだったら、わざわざ会議に招く必要などなく、放置しておけばいいわけである。

つまりこの当時、創価教育学会は日蓮正宗から見て、3000人という、絶対に無視できないほどの会員数を抱え、日蓮正宗に対して大きな影響力を保持していた、宗内最大規模の信徒団体だったのである。

この僧俗護法会議の席上で牧口常三郎氏は、他宗他派を邪宗として排撃する日蓮正宗の教義上の立場を厳格に守ることを強く主張し、日蓮宗との合同に強く反対した。

創価学会・牧口常三郎1


また政府は、学校や家庭、職場のみならず、日蓮正宗に対しても神棚を設けて、皇大神宮の神札(大麻)を祀って拝むように強制していた。

これに対しても、狂信的なまでに日蓮正宗の教義を信じていた牧口常三郎氏は、「末法では護法の神は天に昇ってしまっており、伊勢神宮には魔物しか住んでいない。神札の受け入れは謗法行為になる」と主張し、神札の受け入れを拒否した。

 

僧俗護法会議では、日蓮正宗の僧侶・小笠原慈聞氏が日蓮宗との合同を主張して紛糾したが、結局、最後は日蓮宗との合同に不参加を決議。つづく326日に総本山大石寺で開かれた第25回宗会でも日蓮宗との合同不参加を決議している。

宗会とは、日蓮正宗の“国会”に当たる機関で、教師の資格をもつ僧侶の選挙で選出される宗会議員によって構成されるもので、日蓮正宗では宗会議員になることが、実質的に僧侶としての出世コースの第一歩になっているといわれている。

 

最終的には、日蓮正宗は政府から単独での宗制認可を取ったのだったが、合同はともかくも神札は受けるようにすすめていた日蓮正宗は、こうした牧口常三郎氏ら創価教育学会の動きに危険を感じ取り、620日、日蓮正宗は創価教育学会会長・牧口常三郎氏と理事長・戸田城聖氏を総本山大石寺に呼びつけた。

大石寺大奥にて、日蓮正宗大石寺62世法主鈴木日恭、隠居法主になっていた大石寺59世堀日亨の立ち会いのもと、日蓮正宗宗務院庶務部長・渡辺慈海氏(後の日蓮正宗66世法主細井日達の下の宗務総監・渡辺日容)より、牧口常三郎・戸田城聖両氏に対し

「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」

注意がなされ、意外にも、牧口常三郎氏もこれに素直に従ったことが、堀日亨の記録「富士宗学要集9431頁」に記されている。

59世日亨2


大石寺より下山した牧口・戸田両氏は、応急の対応策を講じ、625日付けで学会内に「通牒」なる文書を発して、日蓮正宗の方針に従うよう呼びかけている。

しかし特高警察は、創価教育学会をマークしはじめ、1942(昭和17)5月には、機関誌『価値創造』の廃刊を指示した。牧口常三郎氏はその廃刊の辞で「国策にかなうことを信ずるのであるが、廃刊になるのは、不認識の評価によるか」と不満を漏らしている。

1943(昭和18)1月ころから、官憲当局の圧力はさらに加わり、創価教育学会の座談会に特高警察の刑事が現れ、しばしば集会を禁止したりした。