■東京・国立市の大宣寺初代住職・菅野日龍(菅野慈雲)氏の真実5

 

□日蓮正宗の「創価学会・板本尊模刻事件の経緯」は史実に反している4

 

1978(昭和53)12日 細井日達法主が1981(昭和56)10月の日蓮第七百遠忌について

「池田大作を慶讃委員長に任じ…」と訓諭を発布する(『大日蓮』2月号『聖教新聞』14)

1978(昭和53)14日 大石寺に登山した池田大作会長、北条浩理事長、辻武寿副会長ら創価学会幹部が細井日達法主に目通り。細井日達法主は

「学会は会長本仏論を本にしている。改めなければ本宗の信者と認めない」

と発言。

66世日達10


1978(昭和53)16日 大石寺の全国末寺住職寺族初登山で、細井日達法主が早瀬日慈総監の「本従の師」発言を批判する説法を行い、法主と宗務総監の不協和が表面化。

これにより、宗務院の機能がマヒ状態に陥ってしまう。

こういう最中、創価学会御用達の仏師・赤沢朝陽が大石寺に登山して細井日達法主に目通りしたとき、

「創価学会の依頼で板本尊を数体模刻しましたが、罰が当たらないでしょうか」

と質問したため、「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の本尊以外にも、板本尊模刻があることが細井日達法主に発覚。

親創価学会僧の早瀬日慈総監が仕切る宗務院を信用していなかった細井日達法主が、1978(昭和53)1月、娘婿の菅野日龍(慈雲)氏に直接電話をして、

「今、赤澤朝陽の社長が年始の挨拶にきて、学会からの依頼で多数の御本尊を板本尊に直したと聞いた。何体彫刻したのか、赤澤に行って調べて来るように」

と、調査を命じた。

その菅野日龍(慈雲)氏は、細井日達法主の命令のままに、創価学会御用達の仏師・赤澤朝陽へ行って調査。1977(昭和52)11月に細井日達法主が創価学会本部に下向して“開眼”した、創価学会本部常住本尊を模刻した板本尊の他に、7体の板本尊模刻が判明したことを細井日達法主に報告している。

 

1978(昭和53)年に入ってから、大石寺で何度も細井日達法主が臨席のもと、僧侶の時局懇談会が開かれ、1978(昭和53)2月の御講から、日蓮正宗内の反創価学会系僧侶・住職が、一斉に公の席で創価学会批判の説法を開始。

全国で創価学会を脱会して、日蓮正宗寺院の檀徒になる信者が続出するが、こういう日蓮正宗内の反創価学会運動、当時の呼び名で「正信覚醒運動」を推進したのは、日蓮正宗宗務院ではなく、宗務院を「親創価学会」として信用していなかった細井日達法主にけしかけられ、あおられて立ち上がった日蓮正宗寺院の住職たちである。