■東京・国立市の大宣寺初代住職・菅野日龍(菅野慈雲)氏の真実8

 

戸田城聖菩提の寺院が日蓮正宗内で反創価学会活動の牙城になった歴史の皮肉

 

大宣寺境内には「三学院」という名前の在勤僧侶が何人も住んでいる堂宇・伽藍がある。

大宣寺を開創した日蓮正宗大石寺66世細井日達法主は、少年得度した自分の弟子たちをここに住まわせ、大宣寺を日蓮正宗僧侶育成の場にしようとしていた

66世日達10


日蓮正宗では、富士学林大学科ができる前は、高校を卒業した若手僧侶たちは、立正大学をはじめ一般の大学に入学し、東京近郊の日蓮正宗末寺寺院から通学していた。

日蓮正宗僧侶たちも、関東の大学に入学する者が多く、それにともなって、それらの僧侶たちは関東の日蓮正宗末寺寺院に在勤する。その代表格が大宣寺だった

又、昭和五十年代のころ、創価学会が末寺寺院の建立を大幅に減らして日蓮正宗に無任所教師・在勤教師が大幅に増加したころ、多くの在勤教師がこの大宣寺に在勤していた。

日蓮正宗と創価学会の和合路線時代、日蓮正宗は、毎年30人前後の新しい得度僧侶を少年得度、一般得度で採用していた。それらの得度僧の親は、日蓮正宗寺院住職、創価学会員、法華講員だが、親が寺院住職か創価学会員というケースが多かった。

毎年30人前後の新しい得度僧侶が生まれていくということは、新しい寺院が建立されない場合、毎年30人前後の僧侶が死去するか、隠退しないと、住職になれない若い僧侶がどんどん増えていくことになる。

日蓮正宗と創価学会の間に不協和音が出始めた昭和49(1974)8月以降、創価学会は新しい寺院建立寄進を停止しており、宗門の日蓮七百遠忌局や末寺住職が建立寄進した寺院もあったが、数としては少なく焼け石に水。

住職になれない若い僧侶たちの多くは大宣寺に起居し、住職になれない不満の矛先が創価学会に向いていった。

その大宣寺に住んでいた在勤教師たちが、創価学会のいわゆる「昭和五十二年路線問題」の時は、月4回行われている「御講」の席などで過激な反創価学会説法を展開し、大宣寺には、創価学会を脱会した信者・「檀徒」が多数集結していた。創価学会二代会長・戸田城聖の菩提のために建立された大宣寺で、しかも戸田城聖の命日の二日に行われる「御講」の席で、創価学会批判・池田大作批判の説法を行っていた大宣寺在勤の日蓮正宗僧侶たち。

細井日達法主が創価学会2代会長・戸田城聖の菩提のために建立した寺院が、日蓮正宗内で反創価学会活動の牙城のようになったというのは、歴史の皮肉と言う他あるまい

 

過激な反創価学会活動(いわゆる正信覚醒運動)を行っていた大宣寺の在勤僧侶たちは、正信会と行動を共にした僧侶が多く、1980(昭和55)1982(昭和57)年当時は、日蓮正宗大石寺67世阿部日顕法主の「宗創和合路線」の政策に反発して、一時は阿部日顕法主にも反旗を翻した僧侶が多数いた

しかし、その後、宗門中枢僧侶に説得されて阿部日顕法主の側に寝返ったりしてその数は減っていき、最後まで正信会に同調した僧侶は、大宣寺から退去していった

第一次宗創紛争で創価学会を脱会した大宣寺「檀徒」はその後、「法華講大宣寺支部」を結成して日蓮正宗法華講連合会に加入している。

1991年にはじまった日蓮正宗と創価学会の宗創戦争で、とうぜんこの大宣寺にも、創価学会を脱会して法華講員になった信者が集結したのであろうから、戸田城聖菩提の寺院に、反創価学会信者が集結する構図は変わっていないことになる。

 

そして一時、阿部日顕法主に反旗を翻して「花野充道の乱」を起こし、日蓮正宗末寺住職を辞職した僧侶・花野充道氏が大宣寺の「三学院」に住んでいたという。

 

私は一度、大宣寺に行ったときは、何の行事も行われておらず、本堂の中はガランとしていたが、大宣寺には、さまざまな人たちの喜劇・悲劇がつまっているように思えて、何となく感慨があった。これからも、大宣寺を舞台にした人々のドラマは、つづくのだろうか。