<歴史>

 

日興は、宗祖の本弟子六老僧の一人として積極的な折伏に目覚しい成果をあげ、特に駿河において強力な教団組織を創りあげた。この急速な布教展開は他宗派関係者や鎌倉幕府内権力者の警戒心を招き、1279年(弘安二年)には熱原郷付近の僧俗が徹底的な弾圧を受け、最終的に3名の農民信徒が殉教を遂げるという事件も起きている(熱原法難)。

2祖日興1


宗祖日蓮滅後廟所の六弟子による輪番制が敷かれたが戦乱や疫病、遠方の布教活動を理由に日興以外の五弟子が輪番制を放棄。

本弟子六老僧の一人の日向の示唆によって地頭・波木井六郎実長が謗法行為をして、身延山久遠寺別当職の日興はやむなく身延離山したと、日蓮正宗や日蓮本宗などの日興門流では言っている。

 

日興は 1289(正応2)に多宝富士山下之坊を開山し、多宝富士山下之坊は現在では富士門流・日興門流発祥の聖地とされている。

1290(正応3)、日興は南条時光の寄進によって富士山の麓に大石寺を開いた。

その後長きにわたって、通称として富士門流または日興門流と呼ばれた「日興の日蓮宗」の流れを汲む諸派は、勝劣派・一致派48本山が戦前の宗教政策により連合した日蓮宗とは教義的にも宗教行為の交流はないが、学術面での交流を持っており、日蓮宗僧侶が大石寺に訪れることがある。

とりわけ日蓮正宗では現在でも、日蓮の正しい教えが日興-日目-日道と続く法脈以外には伝わらなかったとして、日朗系などの全ての他門流、さらには他の富士門流諸派(後世になって日蓮宗と妥協的な態度を取るようになり、大石寺に従わなくなった)までも、すべて謗法としている。

 

江戸時代、大石寺は江戸城では独礼席を許され、また第25世の日宥は後水尾天皇の皇孫であり第6代将軍徳川家宣正室の天英院の猶子(養子)に迎えられている他、皇室や公家・将軍家や大名家などの崇敬を得たが、他の宗派と同様に布教活動は江戸幕府の厳しい統制を受け続け、加賀藩・仙台藩・伊那・尾張藩・八戸藩などの各地では法難が続発した。尚、金沢法難は身延山久遠寺を総本山とする一致派日蓮宗の石川県羽咋市・金栄山妙成寺(後に本山)が、加賀藩に虚偽の答申をしたために日蓮正宗が被った法難で、後に一致派日蓮宗妙成寺は虚偽答申の犯罪行為が露見し閉門蟄居の刑を受けている。

このように日蓮正宗が被った法難の殆どは身延山久遠寺を本山とする日蓮宗の讒言によって被るに至った例が多い。

 

1868年の明治維新によって、大石寺教団と国家権力との間には新たな緊張関係が生まれた。すなわち、神道の国教化を宗教政策の根幹とした明治政府は、仏教各派に対しては、行政制度上の統合整理強制によって分割支配をはかる方針を採った。

この背景として、日蓮宗管長・新井日薩らによる「全日蓮門下の統合」を目指す画策もあった。大石寺第54世法主・日胤は、1873年に教部省へ「大石寺一本寺独立願」を提出し、以降も数度にわたって諌暁を繰り返したが遂に容れられず、結果的に1876年より、富士門流の系列に属する大石寺・妙蓮寺・北山本門寺・京都要法寺・小泉久遠寺・保田妙本寺・西山本門寺・伊豆実成寺の八本山は行政上、日蓮宗興門派(後に日蓮本門宗と改称)として分類され、行政上の宗派代表としての「興門派管長(本門宗管長)」の職は、八本山が交代で務めるという形を余儀なくされた。

1881-1882年にかけては大石寺第55世法主日布は1881-1882年が第4代の、1891-1892年にかけては大石寺第56世法主日応が第5代の管長に就任している。

56世日応

 

大石寺派僧俗にとってみれば、大石寺の住職は依然変わりなく法主(ほっす)の地位ではあるが、管長の地位は謗法の人間が占めている場合もある、などという、信仰上極めて耐え難い異常事態が続き、教団の存立そのものも危ぶまれる事態となった。

しかしその後、第55世日布・第56世日応と、数度にわたり政府への抗議活動と他の七本山に対する破折活動が続けられた結果、ようやく1900年、大石寺門流は、本門宗からの分離独立が認可されて日蓮宗富士派と公称するようになった。

そして191267日、大石寺第57世法主日正の決定により、現在の「日蓮正宗」へと宗派名の変更が行われた。