右謹んで後代に送る実に以て末代を鑑み衆機不同を勘るに全く一准なる可からず。其の故如何となれば宿習の所感に依つて或は権小を執し、或は外道邪見の語録頌詩等に着し、或は狂言綺語の道を翫び、或は世俗の文筆を因み出世の学文を捨て、或は天台帯権の止観に耽つて・日蓮実大の止観を捨て、或は水中の月を見て天月の思を成し、或は理上の法相を学んで事上の法相に暗く、或は爾前迹門謗法の化儀化法を崇んで、本門所立の直達の法則を嘲り、獅子身中の悪虫日本国に充満して本門弘経の門を塞ぎ、名を日蓮に仮りていはん・本迹に就いて勝劣無きに非ず・天台伝教並びに法主大聖人の御書釈を拝見し奉るに、機情久近の辺は一往勝劣治定なれども、実相に於いては全く二辺なし、明かに知んぬ再往一致なり。白蓮阿闍梨日興の立義甚以て非なり。同意す可からず。若し本迹始終倶に勝劣ならば、迹門の読誦無益なり。されば高祖も朝夕は方便寿量の両品を読誦し給ひつらめなど申して、予が弘通の正義を申し乱れるべき者なり。

方便寿量の読誦は在世一段の一箇の一念三千、心破の一段是れなり。若し本迹を混合する事あらば、天地水火父母王民を弁ぜざる者なり。願わくば未来の弟子等彼等邪義に同意せず、宜しく大願を発し自ら誓言を説くべきなり。天台伝教弘経の門をば真言の悪法を以てこれをふさぐ、知りぬ日蓮が本門をば本迹一致の大石を以つて打破らんか悲しむ可し悲しむ可し。

又御本尊書写の事・予が顕はし奉るが如くなるべし、若し日蓮御判と書せずんば天神地神もよも用ひ給はじ、上行無辺行と持国と浄行・安立行と毘沙門との間には・若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号と之を書く可きなり、経中の明文等意に任す可きか。

又立つ浪吹く風・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁す可きなり。若し然らずんば仏弟子に非ず阿羅漢に非ず辟支仏に非ず菩薩に非ず我が弟子に非ざるなり。予が仏法に於いては一塵一滴も残らず、悉く之を付属す。汝謹んで伝弘して未来までも伝灯を絶えざらしめよ。

南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

 

 

弘安三庚辰正月十一日                   日蓮在御判

百六箇抄1