■検証143・「戒壇の大本尊」の偽作者は大石寺17世法主日精ではない7

 

□犀角独歩氏ら日精偽作説が見落としている江戸時代初期の政治・社会・宗教情勢

 

日蓮正宗大石寺17世法主・日精が、「戒壇の大本尊」なる板本尊のことを「戒壇院の本尊」と呼び、「戒壇の大本尊」なる板本尊を御影堂の日蓮木像の後ろに祀り、御影堂に「本門戒壇堂」と自筆した棟札を掲げたということは、大石寺が「事の戒壇」であり、大石寺に「戒壇院」「本門戒壇堂」があるということを内外に宣言しているということになるのだが、なぜ大石寺17世日精はそんなことをしたのか。

17世日精1

 

それは大石寺門流が、徳川幕府公認の宗派となるための一大パフォーマンスだったということである。もうすこし具体的に詳述してみよう。

「戒壇」とは、戒律を授ける(授戒)ための場所を指すのであるが、「戒壇」で授戒を受けることで出家者が正式な僧侶・尼となるが、奈良時代に唐より鑑真が招かれ、戒律が伝えられ、この戒律を守れるものだけが僧として認められることとなった。

そもそも日本への仏教伝来以降、飛鳥・奈良地方に建立された南都六宗である法相宗(興福寺・薬師寺・法隆寺) 、倶舎宗(東大寺・興福寺) 、三論宗(東大寺南院) 、成実宗(元興寺・大安寺) 、華厳宗(東大寺) 、律宗(唐招提寺)の寺院とは、朝廷、天皇、皇族、公家・貴族が建てた、いわゆる「官寺」であり、僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」で授戒した官寺の僧侶のみが、朝廷から僧侶として認められたのである。

その後、平安時代に、朝廷公認の仏教は、伝教大師最長が開いた天台宗と弘法大師空海が開いた真言宗の二宗が加わり、南都六宗とを加えて「八宗」と呼ばれるようになる。

当時の日本では、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は、伝教大師最澄が朝廷の勅許で建立した大乗戒壇の比叡山延暦寺と、延暦寺以前からある日本三大戒壇である奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺をはじめとする官寺の戒壇のみ。朝廷公認の宗派とは、官寺の南都六宗に、伝教大師の天台宗と弘法大師の真言宗を加えた八宗のみである。

それから鎌倉、室町、戦国、安土桃山と時代が下り、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗といった鎌倉仏教が、朝廷、鎌倉・室町幕府から公認され、日蓮宗も日像の京都開教がきっかけになって、「日蓮大菩薩」号が朝廷から下賜され、豊臣秀吉の方広寺大仏供養、受不受問題を経て公認への路を歩んでいくことになる。

しかし1603(慶長8)年、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられて徳川幕府が日本の実権を掌握する世になった以上、大石寺門流としては何としても徳川幕府公認の宗派として認められる必要があった。

□大石寺17世日精は大石寺を徳川幕府公認の宗派にすることが至上命題だった

 

大石寺17世日精が大石寺法主になり、御影堂を再建して「戒壇の大本尊」なる板本尊を日蓮木像の後ろに祀ったのが1632(寛永9)年。徳川幕府の将軍は、すでに三代家光になっていた。

その徳川幕府は、強大な権力・軍事力に物を言わせて、旧主家の豊臣家や福島家・加藤家・堀尾家・蒲生家・生駒家といった豊臣色の濃い外様大名、松平忠輝・徳川忠長ら徳川一門の中の反宗家勢力が、幕府の安泰と権威拡大のために取り潰しになった。草創期の家康・秀忠・家光の初期3代だけで実に122家の大名が改易・減封に処せられている。

さらに大石寺17世日精の大石寺晋山以前において、すでに徳川幕府によってキリスト教が禁止され、徳川幕府の命に従わない日蓮宗不受不施派を禁圧し、徹底的に弾圧した。

日蓮宗でも1630年(寛永7年)513日、寺領は国主の供養か仁恩であるかについて、受布施を主張する身延久遠寺・日暹と不受不施を主張する池上本門寺・日樹との対論で、幕府が両者を江戸城で対決させた論争・身池対論(しんちたいろん)があり、徳川家康が不受不施派を禁止した裁きに違背した罪として、不受不施派を敗者とする結論を下した。

これにより、池上本門寺・日樹は信州伊那に流罪、中山法華経寺・日賢は遠州横須賀に流罪、平賀本土寺・日弘は伊豆戸田に流罪、小西檀林・日領は佐渡のち奥州中村に流罪、碑文谷法華寺・日進は信州上田に流罪、中村檀林・日充は奥州岩城平に流罪となる事件があった。

 

徳川家康・秀忠・家光の三代の将軍による不受不施派弾圧は、大石寺を含む日蓮を宗祖とする全ての門流を震撼させる大事件であった。大石寺をはじめとする富士門流は、宗外からの供養については「国主は受・庶民は不受」とし、辛うじて身延山久遠寺の「受不施」に同調したが。

がしかし、まかり間違えば、大石寺とて不受不施派同様に、幕府から弾圧されかねない危険性が充分にあった。

前出の江戸城における身池対論は、大石寺17世日精が登座する、わずか2年前の出来事である。大石寺も不受不施派のように禁圧されてしまえば、法主以下、僧侶は流罪、寺院は取りつぶし、ないしは他宗派に改宗である。

そうすると身池対論の2年後に大石寺法主として登座した17世日精は、なんとしてでも大石寺一門を徳川幕府公認の宗派にすることが、至上命題ということになる。