■検証147・「戒壇の大本尊」の偽作者は大石寺17世日精ではない11

 

□「戒壇の大本尊」は大石寺17世日精の代以前から大石寺に存在していた

 

日蓮正宗大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊は、すでに大石寺9世日有の代から、大石寺に存在していたことが文献史料に残っている。それらのものを列挙すると、次のようになる。

 

1 保田妙本寺・小泉久遠寺11代貫首・日要(14361514)が、大石寺9世日有から聞いた説法を、弟子に語った内容を日果が筆録した文書である「新池抄聞書」の文

 

「日有云く、また云く、大石は父の寺、重須は母の寺、父の大石は本尊堂、重須は御影堂、大石は本果妙、重須は本因妙、彼は勅願寺、此は祈願寺、彼は所開、此は能開、彼は所生、此は能生、即本因、本果、本国土妙の三妙合論の事の戒壇なり」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書『富士日興上人詳伝・下』p84)

「戒壇の大本尊」なる板本尊を祀っている「事の戒壇」という名前が、ここで具体的に、かつ、歴史上はじめて日蓮正宗大石寺に登場する。

 

2 大石寺9世日有が死去した1482(文明14)年に行われた小泉久遠寺と大石寺の問答を記録した「大石寺久遠寺問答事」には大石寺本尊堂における問答の記載がある。(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』9p53)

 

3 1493(明応2)年に北山本門寺六代貫首・日浄(?1493)が死の直前になって「日有は未聞未見の板本尊を彫刻・造立した」と厳しく非難する文書を書いた「富士山本門寺文書集日浄記」の文

 

「大石寺の板本尊は日有(彼山中興)の偽造なり。往昔より兎角に北山本門寺の本堂を蔑如して富士門徒にて争う中に於て、殊に大石寺の邪徒、重須(北山)の本堂を嫉妬し板本尊を偽造して、戒壇の本尊と名付け、且は偽書を造り開山の付属と云い、無窮の妄語を吐き、世間の道俗を誑惑し、無慙無魂を招かるる事也」

「当山第六世日浄上人伝に云く『大石寺日有云く、重須は生御影堂正意、大石寺は本堂正意なり。故に国主本門の正法を立てらるる時は此の板本尊即ち本門戒壇の本尊と云々。』 …

是れ日浄上人は日有の時の人なり。已にそれ未聞未見の板本尊を彫刻すと云う。偽造たること白々たり。又、小泉久遠寺の日要、日我等、日有の真似をして重須は御影堂正意、久遠寺は本堂、能開所開、両寺一味などと云う」

「日有、開山の本懐に背き、未聞未見の板本尊を彫刻し、猶己義荘厳の偽書を造る。…もし、日有の誑惑世間に流布せば、興門の道俗共に無間に堕ち、将来悲しむべし云々」 (「大石寺誑惑顕本書」p6p7

戒壇本尊1 

4 日蓮正宗大石寺14世法主・日主の著書「日興跡条条事示書」の中の

「大石寺は御本尊を以て遺状と成され候、是れ即ち別附嘱・唯授一人の意なり。大聖より本門戒壇御本尊、興師従り正応の御本尊法体御附嘱…」

「右為現当二世造立如件本門戒旦之願主弥四郎国重法華講衆等敬白弘安二年十月十二日」。

 

5 1561(永禄4)32日、保田妙本寺14世貫首・日我が書いた『観心本尊抄抜書』の一文

「(身延山)久遠寺の板本尊、今大石寺にあり。(日蓮)大聖(人)御存日の時の造立也」

 

6 1617(元和3)424日、京都要法寺24代貫首・日陽が大石寺に参拝して『戒壇の大本尊』の内拝を受けた時のことを記した『祖師伝付録』の一文

「日本第一の板本尊、・・・・高祖聖人の眉間の骨舎利、水精の瓶塔に入れて親しく拝見す」

 

7 江戸時代の初期、日蓮正宗大石寺15世法主・日昌の代に、日蓮宗の寺院・下総(千葉県)妙興寺の僧侶・大法院日憲が「御開扉」を受けた記録。

「大石寺板本尊の事 日憲参詣の時、委く拝し奉る。竪五尺、横二尺四寸なり。去て御勧請の次第は上段には釈迦多宝本化の四菩薩、次の段には文、普、薬、弥、舎、迦、大梵、釈提、大日月明星、次の段には天、章、伝、台、阿闍、提、次の段には鬼子、十羅、天八、仏滅後二千二百二十余年○大漫荼羅也、日蓮御判、其の下に横右現当二世の為に造立件の如し、御判の右之脇に、本門戒壇之願主弥四郎国重、法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日云々」

 

このように大石寺17世日精の代以前から、もっと言うと大石寺9世日有の代から、大石寺に「戒壇の大本尊」なる板本尊が存在していたことを示す史料が存在している以上、「戒壇の大本尊」大石寺17世日精偽作説はこれらの証拠史料とことごとく矛盾するということになる。

したがって、大石寺17世日精偽作説者は、これらの矛盾を一つ一つ悉く会通する必要があるが、そのような会通をした大石寺17世日精偽作説者は、犀角独歩氏を含めて誰一人いないのである。 

犀角独歩13(犀角独歩氏)