■「日蓮正宗」系が説く日蓮原理主義の害悪3「佐渡御書」

 

□「法華経を捨つるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が念仏者よりも久しく阿鼻地獄にあらん」

 

日蓮が佐渡流罪になった翌年の1272(文永9)320日、佐渡島で顕した「佐渡御書」と呼ばれている遺文(御書)の末尾に、現在の日蓮正宗大石寺・創価学会・顕正会など「日蓮正宗」系団体の日蓮原理主義的カルト体質をよくあらわしていると思われる文があるから興味深い。

もちろん日蓮正宗大石寺が発刊した「平成新編御書全集」にも載っているもので、その583ページには次のように書いてある。

 

「日蓮を信ずるようなりし者どもが、日蓮がかくなれば疑ひを起こして法華経を捨つるのみならず、かへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が、念仏者よりも久しく阿鼻地獄にあらん事、不便とも申す計りなし」

----ひとたびは日蓮に入門して日蓮を信ずるようになった者たちの中で、日蓮がこのように佐渡流罪の身になると、たちまちに日蓮の法門に疑いを起こして、法華経の信仰を捨てて退転するだけにおさまらず、逆に日蓮を批判する立場になって、自分ほうが日蓮よりも賢く智慧があると思っている、まちがった、道理にはずれた者たちがいるが、こういう者たちは無間地獄に堕ちる念仏者よりもはるかに長い間、阿鼻地獄(無間地獄)の底に沈んでしまうのである。まことにあわれな者たちである。-----

 

一旦は日蓮のもとに入門した者であっても、その後に日蓮を疑って法華経の信仰を捨てて退転し、日蓮をアレコレと批判した者は、日蓮が「念仏無間地獄」と喝破した南無阿弥陀仏を信仰する念仏信者よりも、はるかに長い間、無間地獄に堕ちて、苦しまなければならないのだという。

こんなバカげた仏教の教えがあるだろうか、と言いたくなる。自分の元を去っていった人たちを信者からなるべく遠ざけたいということもあるのだろうが、それにしても日蓮の近親憎悪の感情というか、日蓮の信仰を捨てて、日蓮のもとを去っていった人たちに対する憎しみの感情は、異常としか言いようがない。こんな狭量なことを説いている人物が、「末法のご本仏」「仏さま」のわけがない。もし仏という存在が本当にいるというならば、こんなバカげた近親憎悪の感情剥き出しの悪口を説くわけがないではないか。見当違いも甚だしいと思うがどうだろうか。

 

しかしこの文をよく読んでいると、今の日蓮正宗、創価学会、顕正会などの悪しき体質をよくあらわしているような気がして、反面、面白く思えるところもある。

というのは、自分たちが気に入らない、自分たちにとって都合の悪い人物や団体を、徹底的に排斥するという手は、創価学会はもちろんのこと、日蓮正宗がよく使う手だからである。

御影堂4


彼等はそういう人物を、気が狂った、頭がおかしい、きちがいだとか、精神分裂病だとか、アルコール中毒だとか汚い売文家だとか言って、信者から遠ざけようとする。

最近では、日蓮正宗の僧侶たちが、ずいぶん昔に大石寺から破門になり、最近、大石寺に意見書を送った信者に対して

「大謗法の痴れ者が」「悩乱の沙汰」「いかに懺悔しても『千劫阿鼻地獄』の大苦を免れない」「いかなる分際か。身の程をしれ」などと口を極めて罵っている。

先の佐渡御書の日蓮の言葉を重ね合わせると、見事なまでに日蓮正宗、創価学会といったところが、日蓮の指南と体質をよく引き継いでいることがわかる。

しかしいくら高尚な仏教論やきれいごと、建て前上のさも立派そうな教えを説いたところで、その人間からほとばしるような深い人間味がなければ、全く意味がない。たとえ相手がまちがったことを話したとしても「大謗法の痴れ者が」「悩乱の沙汰」「いかに懺悔しても『千劫阿鼻地獄』の大苦を免れない」「いかなる分際か。身の程をしれ」などとは言わないだろう。またそういうことは言ってはならないことだ。

こういう日蓮正宗の「非常識」は、いわば宗教的な錯覚ともいえる。日蓮正宗の信仰を長くつづけると、日蓮正宗の信仰をもっていない人や日蓮正宗を批判している人や日蓮正宗を離檀した人、離宗した人をことさらに「下」に見ようとする。日蓮正宗や創価学会等「日蓮正宗」系の信者たちは、信仰の世界の外にいる人たちに対して、一方的な優越感をもっている。ひとたび信仰の世界に入信すると「自分は優れた人間だ」と錯覚してしまっている。

日蓮正宗の住職も信者に「あなたは大海で片目の亀が、浮き木にとまるほど、大変稀な幸運に恵まれた人だ」「この仏法にめぐり会えたあなたは、大変な福徳をそなえていたのだ」などとも言って、信者をおだてその気にさせている。そして信者たちは「自分たちは、信仰の世界の外にいる人たちとは、境涯がちがうのだ」と錯覚していく。

しかし錯覚はあくまでも錯覚。そういう錯覚の中で、信者は教祖の言いなりになってしまう。日蓮正宗大石寺の法主や池田大作氏がまちがったことを言うはずがないと、全て従ってしまう。そうしてこの悪循環の中にのめりこんで、ますます錯覚していく悪循環にはまりこむ。

こうして彼らは日蓮正宗を批判している人、反対している人、日蓮正宗をやめた人に対して、

「簡単に化けの皮がはがれる」「大謗法の痴れ者が」「悩乱の沙汰」「いかに懺悔しても『千劫阿鼻地獄』の大苦を免れない」「いかなる分際か。身の程をしれ」などと口を極めて罵り、葬り去ろうとする。そうして信者がふえたことをいいことに、日蓮正宗の寺院の僧侶も、創価学会本部の職業幹部も、ぜいたくざんまいの生活をしている。そういう極端な独善的、排他的な思想やぜいたくざんまいの生活を維持していくために「日蓮・末法本仏義」「戒壇の大本尊」「二箇の相承」といったものがあるとしたら、それこそそれらがニセものであるという証拠ではないか。

戒壇本尊1