大石寺の御影堂では、毎月7日、13日、15日の3回、法主と大石寺塔中坊住職・在勤教師・在勤所化僧が出仕して午前7時から御講が営まれる。この御講は、基本的に誰でも御影堂の中に入って参詣することができる。事前申し込み等も一切ない。

ただし47日の日興御講だけは、大石寺三大行事である「霊宝虫払い大法会」と重なるため、この日だけは一般人は大石寺に入れず、この法要登山会参加者のみしか参詣できない。

あと、時折、大石寺御影堂の御講と、法華講連合会の月例登山会や夏季講習会登山が重なることがある。この時は、一般人立ち入り禁止ではないが、登山会に来ている法華講員が大挙して御影堂に参詣するため、御影堂内は法華講員で超満員になってしまう。

 

御影堂の御講は、午前7時開始だが、開始30分くらい前から、大石寺の半被を着た大石寺従業員が、御影堂前の参道を掃き掃除する。大石寺従業員の話では、「御前様(法主)が通られるから」ということだが、法主の行列が通るからということで、ここまでやらなくてはならないのかなと、私からすれば思ってしまった。

開始時間が迫ってくると、出仕鐘やら出仕太鼓の音が聞こえてくる。参道に目をやると、法主を先頭にして、塔中住職や所化僧の行列が御影堂に向かって、しずしずと歩いてくるのが見える。

参道では、御影堂の中に入らない信者や、さっきまで掃除をしていた大石寺従業員たちは、法主が通る参道に向かって頭を垂れて合掌礼をしている。法主の前では、僧侶も寺族も信者も全員が合掌礼をしている。

しかし信者がやっているように、深々と頭を垂れてしまっては、法主の行列を見ることは出来ない。そこで私は、この行列が御影堂の中に入るまでの間は、頭は垂れずにずっと行事の成り行きを見ていた。

私は、この御影堂の御講に何度か行っていて、ずっと御影堂の外にいたこともあれば、御影堂の中に入ったこともあった。御影堂の外にいれば、御影堂の中の御講を見ることはできない。

逆に御影堂の中に入ってしまうと、御影堂の外の様子が見えない。

法主は、霊宝虫払い大法会や御大会の御影堂行事の時は、御影堂の裏口から中に入っていくが、御講の時は、表玄関から中に入っていく。

 

さて御影堂の中は、普段の御講の時は、大石寺近隣の信者や関東・東海・中部地方の少々、血の気の多い信者が参詣に来ているだけで、御影堂の中はそんなに満員ではない。

一度、ちょうど内陣の法主の大導師席の後ろ側あたり、信者の列の三列目ぐらいに座ったことがある。

かなり参詣信者が多いこともあったが、法主が御影堂の表玄関から入ってくるため、信者は法主の行列が通る「通り道」の分だけ、開けて座らされる。御影堂の中に入っている信者も、全員が頭を垂れて合掌礼をしている。

御影堂1


さて法主が御影堂の中に入って後、いつの間にやら、法主の献膳がはじまっていたという感じ。

また、法主の大導師席の後ろ側あたりに座れたため、御影堂の須弥壇の中に祀られている日蓮御影(木像)を、はじめてゆっくりと直見することができた。

御影堂の須弥壇の扉は、普段は閉められており、御講、御難会、誕生会、立宗会、御書講、御大会といった、御影堂で何か行事があるときでないと、この扉は開けられることがない。したがって、普段の行事がない日の日中に御影堂に入っても、日蓮の御影を見ることができない。

だから、御影堂の日蓮御影像を見るためには、御講などの行事が行われている時に、御影堂に入らないと、見ることが出来ない。意外と、日蓮の御影というのは、大きく見えました。実際には、どれだけの寸法なのかは、わかりませんが。

それと、日蓮の御影の後ろ側には、日蓮正宗大石寺17世法主・日精が、日蓮の真筆本尊を模写彫刻したという板本尊が祀られているというのであるが、この板本尊は、日蓮の御影に隠れてしまっていて、よく見えなかった。

 

シーンとした静寂の中、法主の献膳が行われ、終わると日蓮正宗大石寺67世阿部日顕法主が、しずしずと御影堂の大導師席に歩み寄ってきて座る。阿部日顕法主が「南無妙法蓮華経」の題目を三回唱え、鈴をたたいたあと、法主、僧侶、信者が一斉に読経に入る。

読経終了後、唱題はなく、長くゆっくりとした口調の「引き題目」の合唱が五回。そして法主の祈念があり、全員の題目三唱が行われて御講は終了。

大石寺御影堂の御講は、献膳・読経・引き題目のみで、説法はない。それと引き題目のみで、唱題行がないというのも意外。御影堂の御講で、唱題行も説法もない理由は、わからない。

 

それと、御影堂の御講が行われる日は、午前2時半の客殿での丑寅勤行に、大石寺塔中住職も出仕する。普段は自坊で午前7時から勤行しているのが、御講の日は午前2時半の客殿での丑寅勤行に出仕して、午前7時の御講に出仕する。

法華講連合会の登山会に重なったときは、同じように登山信者は午前2時半の客殿での丑寅勤行に参詣して、一時、宿坊に帰ってから再び午前7時の御講に参詣する。

そうすると、登山信者の中には、「じゃあ、普段の朝の勤行ができないじゃないか」と異議を唱える信者がいると聞いて、笑ってしまった。

日蓮正宗の信者は、午前2時半の大石寺客殿での丑寅勤行が、大石寺の「朝の勤行」だということを知らないのだろうか。お粗末ですねえ。これじゃあ、日蓮正宗の信者に「勤行」が大衆文化として定着していないというのも、なんとなくわかる気がしましたが…。

もっとも最初から信者に「勤行」が大衆文化として定着していないのに、さも定着しているように偽るから、いろいろな「歪み」が出ているのだろうけども。