下条妙蓮寺門流出身の僧侶としては異例の出世をした妙蓮寺住職・漆畑行雄海外部長

 

下条妙蓮寺とは、静岡県富士宮市下条にある日蓮正宗本山寺院のひとつで、日興・本六僧のひとりである日華が開基した寺院。もともとは大石寺の開基檀那である南条時光の屋敷を寺院にしたということであった。

下条妙蓮寺は、富士門流八本山(大石寺・下条妙蓮寺・北山本門寺・西山本門寺・小泉久遠寺・伊豆実成寺・保田妙本寺・京都要法寺)のひとつ。これに讃岐本門寺、日向定善寺を加えたら十本山ということになるが、このうちの四本山(大石寺・下条妙蓮寺・讃岐本門寺・日向定善寺)が、現在、日蓮正宗に併呑されてしまっている。かつては保田妙本寺・西山本門寺も日蓮正宗に併呑されていたが、現在は、日蓮正宗から離脱・独立している。

下条妙蓮寺は、位置的に大石寺からはほど近いところに位置しており、古来から、大石寺と下条妙蓮寺は交流があったようである。

しかし明治時代における日蓮宗勝劣派から日蓮宗興門派の独立。さらに1900(明治33)年の本門宗からの大石寺門流の独立、太平洋戦争の日蓮宗・本門宗・顕本法華宗の三派合同の時など、下条妙蓮寺が大石寺から離れた時代もあった。

しかし、第二次世界大戦後の1950(昭和25)1225日に、下条妙蓮寺と末寺6ケ寺が日蓮正宗に合同している。その当時の妙蓮寺貫首は44代・漆畑日広貫首。今の妙蓮寺46代住職(貫首)

で日蓮正宗宗務院海外部長の漆畑行雄氏の父親である。

漆畑行雄氏は、1945年生まれで下条妙蓮寺44代・漆畑日広氏の長男。平成14(2002)10月、大阪・法住寺住職から下条妙蓮寺副住職に転任。2005年の尾林日至海外部長の病気退任の後を受けて、日蓮正宗大石寺67世阿部日顕法主より日蓮正宗宗務院海外部長に任命された。

漆畑行雄氏が、出家得度したころは、すでに下条妙蓮寺は日蓮正宗に併呑された後だが、しかし漆畑日広氏の長男であるから、いわば「下条妙蓮寺門流出身」と言うことが出来る。

日蓮正宗中枢である日蓮正宗宗務院役員・宗会議長に就任する僧侶とは、古来から讃岐本門寺門流を除き、大石寺門流直系の僧侶であった。

特に他門流から日蓮正宗に合同した下条妙蓮寺、日向定善寺、保田妙本寺門流は「外様」として、日蓮正宗内部において、冷遇されてきていた。それが「下条妙蓮寺門流出身」の漆畑行雄氏が日蓮正宗宗務院海外部長に抜擢されたというのは、まさに異例の出世である。

 

その漆畑行雄氏のひとつ前の妙蓮寺住職(貫首)が、45代吉田日勇(義誠)氏。吉田日勇(義誠)氏は、「下条妙蓮寺門流」の系統ではなく、東京・池袋の常在寺で、常在寺住職・桜井仁道氏の元で出家・得度した、いわば大石寺門流直系の人物。吉田日勇(義誠)氏と同じく常在寺住職・桜井仁道氏の元で出家・得度した人物の一人に、日蓮正宗大石寺67世阿部日顕法主がいる。

67世日顕4


吉田日勇(義誠)氏は、日蓮正宗大石寺66世細井日達法主の代は、日蓮正宗宗務院渉外部長を務めていた人物で、西山本門寺49代・由比日光貫首の日蓮正宗合同問題の紛争当時は、西山本門寺副住職。由比日光貫首の遷化(死去)直後は、西山本門寺50代貫首に晋山していた。

ところが日蓮正宗合同問題の紛争の裁判闘争で、1975(昭和50)年に最高裁判所で日蓮正宗敗訴判決が出ると、吉田日勇(義誠)氏は西山本門寺を退出。西山本門寺50代貫首から除歴され、新たに西山本門寺50代貫首として森本日正氏が千葉・福正寺から晋山している。

吉田日勇(義誠)氏は、阿部日顕法主の代になってから日蓮正宗宗務院渉外部長を退任して能化に昇進。正式に45代下条妙蓮寺住職(貫首)に晋山している。

さらにその後、吉田日勇氏は1993年(平成5年)620日、早瀬日慈重役が死去のあと、後任の日蓮正宗重役に就任している。

 

□下条妙蓮寺庫裡の広間・座敷に掲げられていた後世の偽書「二箇相承」の写本

 

私がはじめて下条妙蓮寺に行ったのは、宗創戦争が勃発する前の1990(平成2)年のことで、この当時は、下条妙蓮寺は、庫裏の玄関から客殿には、誰でも入って行けたのである。

妙蓮寺では庫裏の入口から入って行って、庫裏から勤行や法要が営まれる客殿に行けるようになっている。庫裏の玄関から入っていくと、そこにはなんと昔風の「囲炉裏」があった。さすがは、古くからの古刹寺院という感じがした。しかもこの「囲炉裏」というのは、情景としてはいいですね。映画の撮影に使えるかもしれません。

広間の奥に目をやると、そこには妙蓮寺住職・吉田日勇氏がいて、所化僧に介添えをさせて僧衣を着替えているのが見えた。「ああ、この人が吉田日勇貫首か」という感じ。

下条妙蓮寺の庫裡の中に入っていくと、僧侶からだったか、そこにいた在家の人からだったかは忘れたが「本山妙蓮寺」と書かれた小冊子がもらえる。私は今でも、この小冊子「本山妙蓮寺」を所持している。

ここは毎日、夕方4時から住職が客殿で勤行を行うため、それにあわせて信者が参詣する。吉田日勇氏が妙蓮寺住職だったころは、勤行が終わった後、短時間の法話を行っていた。

法華講員の中には、この下条妙蓮寺が好きな信者が多いようで、法華講連合会総登山会、月例登山会、夏季講習会登山などの折に、下条妙蓮寺に参詣して住職と勤行を行うことを趣味にしている信者が多数いる。

 

広間の座敷に入ってみると、襖の戸の上には、なんと「二箇相承」の写本が掲げられていたのである。そこの「二箇相承」の写本はかなり大きく、畳一畳ぐらいの大きさがあるかのように思えた。

誰が書いた写本かはよくわからなかったが、字体からして、京都要法寺13祖貫首・広蔵院日辰が書いた写本ではないかと思った。

富士妙蓮寺5