□かなりの巨漢の大男住職・数井慈鑑氏が御講で説いていた住職の権威説法

 

今から約25年くらい前のことですが、私が町田市と横浜市の境界線付近に住んでいたことがあり、町田市の南端・成瀬に日蓮正宗寺院・妙声寺(みょうしょうじ)があった。正式な名前は、山号は天鼓山(てんくざん)妙声寺という。宗創和合時代の末期、妙声寺は町田市の市街地中心部に新たに鉄筋コンクリート造りの建物を新築したが、当時は成瀬の木造二階建ての寺院であった。

ここは、1978年(昭和53年)9月、神奈川県相模原市の日蓮正宗寺院・正継寺の出張所として建立されたのだが、1979年(昭和54年)5月、正継寺から独立して「天鼓山妙声寺」の寺号山号を公称した住職は数井慈鑑氏という人であったが、妙声寺は正継寺の出張所として建立された歴史からか、この住職・数井慈鑑氏は、正継寺住職・大橋慈譲氏の弟子肩書は、大橋慈譲氏と同じ「富士学林教授」であった。

「富士学林」とは、日蓮正宗の僧侶養成専門の学校のことで、大学科と研究科がある。

「大学科」というのは、小学校六年生の時に大石寺で出家剃髪した日蓮正宗の所化僧侶が高校卒業した後、入学して四年間、勉学をするところで、ここの学生の所化僧は東京・渋谷区代々木上原の法教院に通う。したがって、富士学林大学科に入学を許可された所化僧は、だいたい東京、神奈川、埼玉の日蓮正宗寺院に在勤しながら、法教院まで通学することになる。

富士学林大学科・法教院は、世間一般の「大学」に相当するものだが、ただし文部科学省認可の大学ではなく、あくまでも「私塾」扱いである。

「研究科」は、大学科を卒業した僧侶が入学して、十年以上、天台三大部やら日蓮の専門教学について、勉強をするところ。研究科の講義は、春季と秋季の二度、大石寺で開催される。研究科は、江戸時代の細草檀林に倣って明治以降、大石寺でつくられている僧侶養成の学校である。

したがって、「富士学林教授」ということは、日蓮正宗僧侶養成の先生ということになる。

そんなこともあって、数井慈鑑氏とはどういう人だろうか、という興味もあったので、御講にちょっと行ってみたことがある。御講には、誰でも入れるのは、ここ妙声寺も同じ

 

あの当時は、まだ宗創和合時代で、妙声寺には法華講はなく、所属信者は全員が創価学会員。したがって、その当時、妙声寺の御講に参詣していた信者も、全員が創価学会員であった。

本堂は、そんなには広くはなかったが、それでも本堂の中は、参詣の創価学会員でほぼ満員の状態。本堂の須弥壇中央に祀られている板本尊は、日蓮正宗大石寺66・細井日達法主が書写した板本尊であった。住職・数井慈鑑氏は、かなりの巨漢の持ち主で、歩き方も、いかにも大男がノッシノッシと歩くように、歩く人だった。

 

日蓮正宗妙声寺住職・数井慈鑑氏は、御講でどんな話しをしているんだろうか、と思って、最後列に座って、耳をそばだてて聞いていたら、ちょっと面白い話しをしていた。

妙声寺1


数井慈鑑氏は、日蓮が入滅した時は、池上邸に桜が咲いたとか、日蓮入滅の1013日の暦は、昔の太陰暦のもので、今の太陽暦にすると1121日になるから、この日に大石寺で日蓮の「御大会」法要が行われるといった話から入って行って、仏教寺院の住職についての話しを延々とはじめた

数井慈鑑氏が説法していた“住職”というのは、日蓮正宗の寺院の住職に限った話しではなく、平安、鎌倉、室町、江戸、明治、大正、昭和の時代を通じて栄華を窮めていた鎌倉、京都をはじめ、江戸、大阪などの仏教大本山、大寺院の住職についてである

数井慈鑑氏が云く「昔の大きな寺院の住職というのは、たくさんの弟子をもち、その威光と権威、権力たるや、大変なものがあった」などと言うのである。

妙声寺住職が御講の説法で、延々とこんな感じで、自ら“住職”というものがいかなるものであるかということを、懇々と参詣の信者に解説するのである。この時点で、私は少しばかりプッと吹き出しそうになっていた。さらにつづけて数井慈鑑氏が、こんなことを言っていた

「今はね、住職なんて言っても『住職兼小使(こずかい)』みたいなもんですよ」

その瞬間、数井慈鑑氏の説法を聴聞していた信者から、どっと笑い声があがった。

日蓮正宗の寺院の住職が、住職兼小使(こづかい)??まさか。

数井慈鑑氏は「小使(こづかい)」という言葉をストレートに使ったが、これはテレビ業界や放送業界などでは“差別用語”として扱われており、ここは「使用人」とか「用人」と言い換えねばならない。

しかし、日蓮正宗寺院の中で、寺族、在勤僧侶、所化僧、信者をあたかも「アゴ」で使い、今でも相当絶大な権威・権力を持っている住職が「住職兼使用人」のはずがないではないか。

まあ、数井慈鑑氏の失言もさることながら、日蓮正宗の多くの僧侶たちの、偉そうな態度をよく知っている私にとっては、数井慈鑑氏の説法が、ものすごい皮肉に聞こえてしまった。

 

しかし、数井慈鑑氏は日蓮正宗寺院の住職について「住職兼使用人だ」などと言う前に

「昔の大きな寺院の住職というのは、たくさんの弟子をもち、その威光と権威、権力たるや、大変なものがあった」

などと、自らが「住職とはいかなるものか」について解説しているのだから、この数井慈鑑氏の説法は、聞きようによっては

「オレは今の住職の地位や権限ぐらいではとても満足できない。もっとオレに権威・権力をよこせ」という意味に聞こえなくもない。日蓮正宗の住職の本音は、もっと寺族、在勤僧、所化僧、信者に尊敬され、寺族や信者は住職の言うがままに、ロポットのように這いつくばって動くというのが理想のパターンにしているということか。だとしたら、全く、呆れてものが言えない。

後で振り返って考えてみると、こういう「権威・権力の紛争」「利害紛争」といったものが日蓮正宗と創価学会の間で繰り広げられた「宗創戦争」の本質をよく顕していた数井慈鑑氏の説法だったのではないのかな、と感じた次第である。