■検証226・大石寺「戒壇の大本尊」御開扉とはどういう儀式なのか6

 

□古代マヤ・インカ黄金文明も顔負けの巨大黄金仏壇に格蔵されていた「戒壇の大本尊」

 

正本堂の御開扉開始前、一人の僧侶が、巨大な扉の前にある、これまた巨大なローソクに火をつけ、香炉の中の香を焚く。正本堂の中のものは、扉から、表の柱、ローソクも、何から何まで巨大なものばかりである。巨大扉の前には、これまた巨大な餅らしきものが、供えられている。

ただし正本堂内には、日蓮正宗の末寺本堂や大石寺の大客殿や塔中坊の本堂に見られる、太鼓もなければ、シキミもない。水をあげる金椀もない。ご飯などを供えたお膳もなければ、餅以外の供物らしきものもない。

これは大石寺の見解によれば、「広宣流布が達成されていないので、戒壇の大御本尊様は蔵の中に秘蔵されていて、給仕も許されていないのです」とのこと。要するに「戒壇の大本尊」は、秘仏のままだから、シキミや水、ご飯をあげるといった給仕ができないのだという。

 

御開扉開始時刻になると、突然、正本堂の僧侶席の両側の扉がバタンと開いて、両側の入口から、僧侶たちが黙ってぞくぞくと入場。最後列が大石寺塔中坊住職、前のほうの列が若手僧侶、最前列は、薄墨色の衣に白袈裟もまだ許されていない白衣の小僧。

僧侶の着席が終わると、副導師の僧侶がマイクを握って「南無妙法蓮華経」(なんみょうほうれんげきょう)と唱題をはじめ、つづけて正本堂内の僧侶、信者一同が全員、唱題をはじめる。

しばらくして、その唱題の中を、向かって左側の僧侶出入口の扉から、法主が仲居僧を従えて出仕してくる。まるで法主一人の出仕のために、来場の僧侶と信者が唱題しているかのようである。

そして法主が正本堂に出仕した瞬間、僧侶席の住職たちは、合掌礼をしながら首をうなだれる。最前列の白衣の小僧たちは、「伏せ拝」と呼ばれる、完全に床に体を平伏す。

これもまた、凄まじいというか、特筆すべき法主の入場シーンである。こんな偉そうな入場してくる人物なんて、他に類例を見ないのではないだろうか。

 

法主が正本堂の大導師席に着座して、正面に向かって合掌し一礼すると、扉の脇にいた僧侶がスイッチを入れ、超巨大な須弥壇の扉が左右に開きはじめる。左右の扉が開き終わると、中から、赤の下地にずいぶん派手な文様が描かれた豪華絢爛な扉が現れ、その二番めの豪華絢爛な扉は、下から上に上がって行く。

二番めの扉が開き終わると、中から、金色に輝いている金ピカの超巨大仏壇が現れる。金メッキなのかもしれないが、超ド派手な黄金の巨大仏壇。まさしく奥州藤原氏の中尊寺金色堂や古代エジプト・古代マヤ・古代インカの黄金文明、中国清朝皇帝の黄金の紫禁城なども、顔負けを通り越して、真っ青になってしまうくらいのものだ。

戒壇大本尊3


一人の僧侶が、合掌しながら静々と正本堂の須弥壇の階段を上がって黄金の巨大仏壇の前に進んで行く。その超ド派手な黄金の巨大仏壇は、人間の身長にほぼ等しい丈があるようだ。

僧侶がカギで巨大仏壇の扉の錠前を開けたあと、巨大仏壇の扉を手で開けはじめる。さらにまだ中に扉がある。

この巨大黄金仏壇の中の扉のつまみに僧侶が手をかけた瞬間、日蓮正宗大石寺67世法主阿部日顕が、大導師席の鐘を鳴らし、その時、信者たちの唱題の声が止むと同時に、巨大仏壇の中の扉が開いて、ここに「戒壇の大本尊」なる板本尊が衆目の前に姿を現すのである。

 

□曼荼羅の相が歪み日蓮真筆曼荼羅の「書の芸術性」が全くない大石寺の「戒壇の大本尊」

 

見た感じとしては、まさに板本尊の表面が黒漆に金色の金文字があでやかに光り輝く、金箔加工で金ピカに光輝いた豪華絢爛の板本尊である。

 

板本尊の文字は、板本尊の中央に「南無妙法蓮華経」の筆によるヒゲ題目と「日蓮」の文字。

そして日蓮の二文字に覆いかぶさるように書かれている日蓮の「花押」。板本尊の四隅には、「大持国天王」、「大広目天王」、「大毘沙門天王」、「大増長天王」の文字と、両脇の梵字。

ここまでは肉眼でもはっきり見えて、読み取れるのだが、あとの文字は、小さすぎてよくわからない。最前列からでも、「南無妙法蓮華経」「日蓮」「花押」と「四天王」、梵字は見えるが、十界列座や仏滅讃文、脇書きなどの、細かい文字ははっきり読み取れない。

ただ黒漆はテカテカに黒光りして、「南無妙法蓮華経」「日蓮」「花押」と「四天王」、梵字などの金文字の金の輝きだけは、なかなか艶やか。

「南無妙法蓮華経」「日蓮」「花押」「四天王」の文字と愛染・不動の「梵字」は、どう見ても同一人の筆には見えない。愛染・不動の「梵字」が、日蓮の実際の筆跡と違っていることは、「立正安国会」発行の「日蓮御本尊集」に収録されている日蓮真筆本尊の愛染・不動の「梵字」を見たことがある人だったら、細かな写真鑑定までせずとも、簡単にわかることだと思う。

そしてもうひとつ、「立正安国会」発行の「日蓮御本尊集」に収録されている、それぞれの日蓮真筆本尊に見られる「書の芸術性」が、「戒壇の大本尊」には見えないこと。

「立正安国会」発行の「日蓮御本尊集」に収録されている、それぞれの日蓮真筆本尊には、見事なくらいの「書の芸術性」が見てとれる。大石寺の「戒壇の大本尊」は、「書の芸術性」どころではない。板本尊の相が実に歪に見える。というか歪んだ相に見える。だから普通の人がこの「戒壇の大本尊」を直接見れば、「こんな本尊が日蓮真筆のはずがない」と思うはずである。

戒壇大本尊1大正4年由井本1