■検証230・大石寺「戒壇の大本尊」御開扉とはどういう儀式なのか10

 

□大石寺法主自ら「戒壇の大本尊」の金文字を奉書で拭く霊宝虫払い大法会の御開扉

 

法主が、正本堂の須弥壇中央の巨大黄金仏壇の前に立ち、「戒壇の大本尊」なる板本尊の前で正座。法主が本尊に対して伏せ拝をした後、総監の介添えで、白い紙か、ないしは布巾のようなものを手にとって、「戒壇の大本尊」なる板本尊の金文字を、ひとつひとつ、拭き始める。

まず最初に中央の「南無妙法蓮華経」「日蓮」「花押」の文字をひとつひとつ拭いていく。

次に板本尊の四隅の「大持国天王」「大廣目天王」「大毘沙門天王」「大増長天王」そして「愛染」「不動」の梵字をひとつずつ拭き、次に「十界列座」の小さな金文字をひとつひとつ布巾のようなもので拭いていく。

法主が「戒壇の大本尊」なる板本尊の前で、本尊に伏せ拝をするというのも、注目すべき事だ。

普段、大石寺で法主は、信者はおろか、住職、僧侶、所化僧らに自分に対して、伏せ拝をさせている光景を目にする。その法主が伏せ拝をする相手は、「戒壇の大本尊」なる板本尊のみというわけである。まあ、法主が正本堂の須弥壇に自ら登って「戒壇の大本尊」なる板本尊の前で伏せ拝をするのも、自らの権威付けのためだろうが。

 

「戒壇の大本尊」なる板本尊の金文字が拭き終わると、今度は法主は、黒漆の表面を拭きはじめる。これが終わると、次は、法主は、手に持ってた団扇か、扇子のようなもので、板本尊の表面を、パタパタと煽り始める。なんで黒漆の表面をパタパタと煽っているのか、意味がさっぱりわからない。ホコリやチリ、ゴミを払っているのか?

ひととおり、「戒壇の大本尊」なる板本尊を拭く作業が終わると、法主と総監が、正本堂の須弥壇の階段をシズシズと降り始める。法主と総監の二人が正本堂の須弥壇の階段を降りる時に、転んだり、つまづいたりしたら、それだけで法主の権威は丸潰れになってしまうだろう。おそらく「こんなところで転んでなるものか」とばかりに、二人とも階段を一段一段、踏みしめるように降りていったにちがいない。

しかしそれにしても、正本堂の須弥壇の階段は、ものすごい急な階段である上に、手すりすらない。こんなにも急勾配で手すりもない階段を70代の老人が、重たそうな僧衣を身にまとって上り下りするというのは、相当きついのではないだろうか。階段を登るときはまだしも、降りるときは大変である。しかも手すりがない上に、法主も総監も合掌したまま、急な階段を下りてきている。

ちょっとでも足を踏み外そうものなら、真っ逆さまに転落し、それこそ骨折どころではすまないくらいの大けがをむしてしまうのではないだろうか。

よくこんな危険な設計にしたものだと、あきれ果ててしまう。

66世日達8


 

正本堂須弥壇の階段から降りてきた法主が再び正本堂の大導師席に着席して鐘を打って唱題は終了。唱題が終わって法主の祈念があり、その後、法主がくるりと信者の方に向いて、マイクに口を近づけて喋りだす。

「本日、全国遠近の信徒ご一同には深信の登山、願いにより本門戒壇の大御本尊御開扉奉り、篤く御報恩申し上げ、各々方、無始以来謗法罪障消滅、信心倍増、息災延命、家内安全、一切無障疑…」「…懇ろに御祈念申し上げました」

という、いつもどおりの「お言葉」を言った後、この日は、延々と『御戒壇説法』を始めた。

そのうち説法の中に「本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土なり」という「戒壇の大本尊の在所が本門事の戒壇」とする有名な文がある。

これは、正本堂が落慶する前、御宝蔵に「戒壇の大本尊」なる板本尊が祀られていた時代では「御宝蔵説法」と呼ばれていたもので、当時、大石寺法主は、初登山者がいる御開扉の度にこの「御宝蔵説法」をしていた。 今は、宗門二大法要や特別慶讃法要のときの御開扉の時のみ、『御戒壇説法』を行っている。

 

□大石寺法主が自ら「戒壇の大本尊」なる板本尊を拭く儀式は信徒向けの宗教ショーである

 

それにしても、法主が「戒壇の大本尊」なる板本尊を自ら拭く儀式というのは、なかなか見ごたえのある「ショー」なのではないか。後で資料を読んだら、法主が「戒壇の大本尊」なる板本尊を拭くのに使っていたのは、「奉書」だということである。日蓮正宗大石寺の見解では、「戒壇の大本尊」なる板本尊は、数十年に一度くらいの割合で、黒漆を塗り替え、金文字の金箔を張り替えているのだという。 直近の例では、197210月の正本堂落慶の時に、「戒壇の大本尊」の化粧直しが行われている。

しかし、日本各地には飛鳥時代や奈良時代の漆工芸のものが、そのままの状態で保管されているし、黒漆加工に金箔加工のものといえば、あの奥州・平泉の中尊寺金色堂だって、張り替えなど一切せずに、当時のままのもので保管されてきている。

ということは、法主が「戒壇の大本尊」なる板本尊の黒漆や金文字を拭いたからといって、そのために「戒壇の大本尊」なる板本尊そのものの保存状態が良くなるとは、到底思えない。

つまり、この「霊宝虫払い大法会」で、大石寺法主が「戒壇の大本尊」なる板本尊を拭く儀式を行っているというのは、保存状態を高めるためというよりも、大石寺の権威付けと信者からの供養金集めのために行っている、と見るのが妥当ではないか。

まあ敢えてする必要がないことを、「霊宝虫払大法会」という大石寺の大法要に事寄せて、法主が「戒壇の大本尊を守護している」という意味合いを持たせるために、信徒向けの一種の宗教的「ショー」として行っているということではないだろうか。