■検証38・日蓮本仏義・中古天台宗教学・恵心流本覚思想パクリ説・母体説は誤りである3
□室町時代~戦国時代にかけて日蓮宗僧・大石寺僧が修学していた天台宗談義所・川越中院2
大石寺の「日蓮本仏義」偽作を検証する上で、かつて武州仙波(川越)の天台宗談義所があったとされる川越・喜多院、中院、武州仙波(川越)の天台宗談義所を訪ねて検証すること、「恵心流本覚思想」を検証することは必須と思われますが、「富士門流執着軍団」の犀角独歩氏も「君ちゃん」氏も、それを行った痕跡は全くなし。彼らは「早坂鳳城氏の論文を検証した」と言うだろうが、日蓮宗側の検証は行ったのかもしれないが、彼らは天台宗側からの検証を全く欠落させている。かつての武州仙波とは今の埼玉県川越市。武州仙波(川越)の天台宗談義所があったところとは、かつての天台宗本山・星野山無量寿寺の北院(喜多院)・中院であることは明らか。今の川越は、蔵造りや喜多院、本丸御殿などの多くの文化財を遺す町として、観光資源が開発され、川越ぐるりんバスで、文化財をくまなく見学できるようになっている。私は、川越ぐるりんバスに乗って喜多院を訪問。午前中に喜多院に到着。三門をくぐった後、庫裡に一直線。庫裡の受付で、拝観券を買って、まずは客殿、書院の見学へ。喜多院の客殿は、1638年(寛永15年)の大火で灰燼に帰した後に再建されたもの。寛永の大火で焼失を免れたのは三門だけである。
喜多院の客殿、書院は、江戸城にあった建物を、徳川将軍家から天海大僧正が譲り受け、寛永15年に江戸城から喜多院に移築したもの。現存する喜多院の堂宇の大部分が、この寛永期に再建されたものであるという。天海大僧正は、喜多院復興を見届けた後、1643年(寛永20年)10月2日、江戸・寛永寺で遷化。行年108才であった。喜多院客殿は、徳川三代将軍家光誕生の間とも呼ばれている。書院は、徳川家光の乳母・春日局の化粧の間と言われている。
もともと書院とは、寺院の中における建築の一形式だが、日本の書院は禅僧が中国からもたらした形式に、和風建築の技法が加味されて成立したものだという。客殿とは、もともとは書院の中にある賓客をもてなすための一室を指すのであるが、喜多院の場合は、独立した堂宇の名前として用いられている。客殿は、書院とあわせて住職の居住の他、賓客の宿泊にも用いられた。
庫裡は、台所、雑務、寺務をこなすための堂宇で、受付や寺務所がある。客殿、書院をひととおり見学した後、渡り廊下を通って本堂へ。喜多院本堂は、比叡山延暦寺第18代座主・慈恵大師良源(元三大師)を祀る御堂で、喜多院では慈恵堂とよんでいる。これは喜多院の中心堂宇で、一番大きい、堂々たる伽藍です。
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