■論破47法華経がデタラメではない根拠を示していないのは日蓮正宗のほうだ

 

□どうして2000年前のインドで法華経説法の『映画』が映し出されたのか科学的に説明せよ

 

------------------------------------------------------------

(不埒な洗脳法華講員・龍神ひろしの妄説)

アンチ日蓮正宗と言う輩は、法華経はでたらめだと言うが、それすら根拠もないでたらめです。

20091112日の楽天ブログ・龍神ひろし日記より)

------------------------------------------------------------

根拠なんか多数ありますよ。いくつか列記してみます。

第一が富永仲基が唱えた「大乗非仏説」。

日本ではじめて、仏教経典を精密に論証して「大乗経典非釈迦仏説」(大乗非仏説)を唱えたのが、江戸時代の大阪の町人学者・富永仲基(17151746)である。

延享2(1745)に刊行された、富永仲基の主著「出定後語」(しゅつじょうごご、しゅつじょうこうご)は、まずヴェーダが先行し、それに対抗して六師外道が、それに対抗しての釈迦・小乗仏教が、それに対抗して大乗仏教が加上されたとし、つまり大乗仏教を後世に作られたものと断じた、「大乗非仏説」を唱えた書として、あまりにも有名である。

この説は本居宣長、後には内藤湖南や、大谷大学学長・村上専精の『仏教統一論』により評価され、服部天游(てんゆう)の『赤裸々』、国学者の平田篤胤の『出定笑語』、等が、富永仲基の主著「出定後語」の大乗非仏説につづいている。

日寛が寛文5年(1665)~享保11年(1726年)の人物だから、富永仲基は日寛よりほんのすこしだけ、後の時代の人ということになる。

この中で面白いのは、大乗経典の宗派である真宗大谷派の僧侶で大谷大学学長もつとめた村上専精が、『仏教統一論』を著して大乗非仏説を提起していることである。

 

「法華経を含めた大乗経典はすべて釈迦牟尼とは何の関係もないものである」

 

歴史学者・井沢元彦氏は、著書「逆説の日本史」で、この富永仲基が日本ではじめて唱えた大乗非仏説は、現在に至るも、誰からも論破されていないものである、と述べています。

「大乗経典非釈迦仏説」(大乗非仏説)が今日に至るまで、誰からも論破されていない論説ということになると、日寛の「二千二百三十余年・弘安元年以降本懐論」そのものが、科学的な論証のもとに成り立っている「大乗非仏説」や「仏滅年代の学説」と根本から矛盾する説ということになり、逆に「大乗非仏説」や「仏滅年代の学説」によって、日寛の「二千二百三十余年・弘安元年以降本懐論」なるものがインチキ極まりないものであることが立証されているということではないか。

金正日3 

(龍神ひろしのそっくりさん・金正日)

 

もっと言うと、「大乗経典非釈迦仏説」(大乗非仏説)が誰も論破できないということになると、大乗経典のひとつである「法華経」の「文底秘沈」の「南無妙法蓮華経」をはじめとする「三大秘法」を教義の根幹に置く日蓮正宗の教義が根本から崩壊することになる。もちろん大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊も含めてである。

 

第二に、大乗非仏説以前の問題として、釈迦牟尼の没年(仏滅年代)の問題がある。

これについて、日蓮宗・日蓮正宗を含めて仏教各宗は、周書異記の記述を根拠とする紀元前949年説をとっている。

が、しかし現在の所は、

○東南アジアの仏教国に伝わる紀元前544-543年説

○紀元前544-543年説をギリシャ資料によって修正した紀元前486年もしくは紀元前477年説

○中国、チベットに残る記述から紀元前400-368年説

○その他の学術的な研究から出した前383年説、あるいは前480年説

などがあり、少なくとも現代において、仏滅年代を周書異記の記述を根拠とする学説は、聞いたことがない。

しかし周書異記の記述が正しくなく、上記4説のうちのどれかが有力ということになると、たとえば日蓮在世の時代は末法ではなく像法でした、ということになり、末法であることを大前提にしている日蓮の教義は根底から崩れるということになる。

ところが日蓮を宗祖とする各宗派は、どこもこれについて効果的な、説得力のある反論を何らしていません。

 

第三に、法華経に説かれている、インドの霊鷲山に何千人も集まったとか、高さ数千メートルの宝塔が現れたとか、釈迦牟尼が数千メートルの宝塔に座ったとか、地面の中から数万人の菩薩が現れたとか…といった、数々の非科学的な記述。

富士学林教授・日蓮正宗正継寺初代住職・大橋慈譲氏は著書「大橋慈譲講本集」や「仏教思想と富士教学」の中で

「仏の神通力で大スクリーンに映し出された映画のようなもの」

と書いているが、こんなものは、まるで説明になっていない。今から2000年前、3000年前の大昔に、どうして巨大スクリーンに映画が映し出されるのか。科学的に説明する責任があろう。

デタラメじゃないというなら、きちんと論証すべきだが、法華経がデタラメではない根拠を示していないのは日蓮正宗のほうではないか。