■検証31・日興在世当時の大石寺に「御堂」も「墓所」もなかった14

 

□日蓮は「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」と遺言していない1

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(日蓮正宗法華講員・やよいの妄説)

日蓮は「墓を身延にたてよ」と弟子たちに遺言「いづくにて死に候とも、墓をば身延の沢にせさせ候べく候」─とありますが、日蓮大聖人様はこうも仰せであります。

「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(美作房御返事)

当時の身延の地頭、波木井実長は、釈迦一体仏造立・神社参詣・福士の塔供養・九品念仏の道場建立という「四箇の謗法」と犯し、日興上人のたびたびの訓戒も聞き入れませんでした。その上から、日興上人は

「身延沢を罷り出て候事面目なさ本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち還し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて世に立て候わん事こそ詮にて候え。さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候いぬ。日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候えば、本意忘るること無くて候」と、身延を離れる事は大聖人様に面目なく不本意であるが大聖人の正義を守るために身延を離山されたのです。

また、hideは「いくら自宗を正統化するためとはいえ、これでは日興を「盗人」と言っているようなものだ。」と言われますが、大聖人様は身延山久遠寺の貫主を日興上人に付嘱されているので、寺の物を持ってきたところで盗人にはなりません。全て日興上人の御所有のものであります

 (法華講員・やよいがmixi「アンチ日蓮正宗」に書き込んだ反論)

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残念ながら、この「美作房御返事」という文書は、後世の何者かがでっち上げた偽作文書です。

したがって、この「美作房御返事」の文の引用は、反論として成立しない。

「二箇相承」は後世の偽作文書であり、日蓮は日興に身延山久遠寺を附嘱していない。したがって、日蓮の遺骨をふくめ身延山久遠寺の寺のものは、日興の所有物ではない。

□大石寺の『二箇相承』は後世の偽作だ

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_193001.html

さてそもそも日蓮が「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(美作房御返事)などという遺言をしたかどうかだが、日蓮は最初からこんな遺言はしていない。

日蓮が遺した遺言は、「いづくにて死に候とも、墓をば身延の沢にせさせ候べく候」─であり、法華講員が何かというと持ち出してくる「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」とは、日蓮は遺言していないのである。これはもう少し時代が下った大石寺の歴史を見れば明らかである。

2祖日興1 

その歴史とは、大石寺三祖・日目の死後、約70年間つづいた大石寺蓮蔵坊の所有権紛争(蓮蔵坊紛争)である。これは大石寺蓮蔵坊が大石寺日道一門の手に下ったり、あるいは日郷一門の手に下ったり、二転三転したあげく、1403(応永10)年、日蓮正宗大石寺蓮蔵坊は、時の法主・6世日時の代に、日道・日行・日時一門、いわゆる今の大石寺一門のものとして最終決着している事件のこと。

蓮蔵坊は、1338(建武5)年、上野郷の地頭・南条時綱が日郷に寄進状を発行して日郷一門に帰したが、それでも日道一門と日郷一門の紛争は止まず、南条時綱の子・時長が地頭になって後、再び時長が日郷一門に証状を出した。

時長証状により蓮蔵坊を安堵(土地所有を公認されること)された日郷は、1345(康永4)年、上洛して京都守護職の案内を得て、念願の天奏を果たし、1353(正平8)年、61歳で死去した。

日郷の後継貫首は、南条時綱の子・日伝である。日伝は幼名を牛王丸、出家して日賢と名乗り、後に日伝と改名した。

1359(正平14)年、日郷一門の日叡が中心になって大石寺に東御堂を建てた。

1363(正平18)年、日郷一門を支えてきた上野郷の地頭・南条時長が死去し、上野郷の地頭は、河東の代官・興津法西が兼務するようになった。

1365(正平20)年、かつての日興の坊舎であった白蓮坊(西大坊)を修復して住んでいた日道の後継法主・5世日行が、日郷一門の後継貫首・日伝が安房国(千葉県)にいることを幸いに、地頭・興津法西に取り入り、日郷一門の僧侶たちは、蓮蔵坊から追放されて、5世日行一門が占拠するところとなった。

この事態に驚いた日郷一門の貫首・日伝は、駿河国の領主・今川家に訴えた。

今川家は、さっそく真偽のほどを正せと興津法西に厳命。これに驚いた興津法西が厳密に調査したところ、日伝側には確かに南条時綱、南条時長の寄進状や日郷の置き文などの証状があるが、大石寺5世日行側には何の証状もない。

そこでこれは明らかに大石寺5世日行側の我欲による陰謀と断定して、興津法西は大石寺5世日行を叱責するとともに、彼に与えた証状をとり上げて、日伝に詫び、蓮蔵坊は再び、日伝側に戻ることになった。

この時に、興津法西が日伝に与えた書状「興津法西より日伝への返付状」の内容は、注目に値する。