■検証39・大石寺「本堂」「客殿」は大石寺9世日有が京都仏教寺院から輸入した伽藍である1

 

□大石寺には創建当初から「本堂」「御堂」「客殿」と呼ばれる堂宇はなかった

 

日興在世当時の大石寺には、本堂も御堂も客殿も存在しておらず、そもそも大石寺「本堂」「客殿」とは、日蓮正宗大石寺9世法主日有が京都・奈良の仏教寺院から輸入した伽藍である。。

大石寺9世日有以前の大石寺、大石寺門流の寺院には「本堂」「客殿」というものがなかった。住職や僧侶の持仏堂はあったが、本堂はなかったのである。

持仏堂というのは、持仏や先祖の位牌(いはい)を安置しておく堂、または室。仏間のことで、仏壇をいうこともある。つまり住職や僧侶個人の本尊を祀っている仏間のことである。

日蓮正宗では、住職や僧侶個人授与の本尊、ないしは個人授与の本尊を祀っている仏間のことを「御内仏」と呼んでいるが、持仏堂とはまさにこの御内仏を祀る仏間ということである。

これに対して本堂とは、仏教寺院において、本尊仏を安置する建物。寺院で中心本尊を祀っている堂宇のこと。寺院の中心的な堂を指して「本堂」ということが多い。

ただし「本堂」という名称は、宗派によって名前が異なっている。

「金堂」が、南都六宗や真言宗など飛鳥時代から平安時代前半にかけての古代創建の寺院で多く使われているのに対し、「本堂」は宗派にかかわらず、古代以降も含め広く使用される。

一般的に南都六宗や真言宗など大陸より初期に渡来した系統の伽藍においては「金堂」、禅宗にあっては「仏殿」、天台宗では「根本中堂」もしくは「中堂」、日本的発展を遂げた寺院では「本堂」と称する場合が多い。室生寺や當麻寺のように「金堂」と「本堂」が別個に存在する寺院もある。

呼称は宗派によって違うが、本堂とは、寺院において、中心本尊を祀っている堂宇のことを指すわけであり、これは住職や僧侶個人の本尊を祀っている仏間である持仏堂とは区別される。

富士門流において、最初に本堂らしき伽藍が出来たのは重須本門寺(北山本門寺)の御影堂だが、大石寺の場合は、日興が持仏堂を建立し、弟子が塔中坊を建立していったが、本堂も客殿もなかった。塔中坊も今は本堂と呼んでいるが、近世になるまで「客殿」と呼んでおり、江戸時代に書かれた「富士大石寺明細誌」にも塔中坊の本堂には本堂とは書いておらず「客殿」と書いてある。

その客殿を大石寺門流で創建したのは大石寺9世日有であり、日有以前には塔中坊には客殿もなかった。大石寺で最初に御影堂を建立したのは大石寺12世日鎮であり、今の御影堂は江戸時代初期に大石寺17世日精が再建したものである。

西山本門寺も、小泉久遠寺も、保田妙本寺も、富士妙蓮寺も、最初に建立したのは「法華堂」であり、その後、大坊(庫裡)、客殿、御影堂というふうに伽藍が発展した。本堂と呼ばれる堂宇は存在していなかったのである。

しかし富士門流の場合は、大石寺の他、冨士妙蓮寺、保田妙本寺、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、伊豆実成寺、讃岐本門寺等、祖師堂と客殿の二堂建てるのが通例になっていて、古来からの堂宇に本堂という名の堂宇はない。西山本門寺、小泉久遠寺、伊豆実成寺は、客殿として建立された堂宇を、現在、本堂と呼んでいる。

西山本門寺28客殿 

□大石寺9世日有が園城寺勧学院客殿をモデルにして創建した大石寺客殿

 

客殿という伽藍は、もともとは京都・貴族の屋敷や寺院などで、客を応対するために造った殿舎で、いわば京都・奈良の貴族文化を象徴するもの。寺院では、世界最古の木像建築・法隆寺の塔頭・西園院に客殿という名前の堂宇が存在する。

法隆寺の西園院とは、貫首の住居であり、大石寺で言えば大坊・大奥に相当し、西園院客殿と言うところは、言わば客間であり、大石寺の大奥対面所に相当する。

大石寺の客殿は、1465(寛正6)3月、大石寺9世日有がはじめて建立・創建した伽藍である。

もともと客殿とは、寺院に来訪した客人をもてなすための建物のことであるが、日有は「信者は『戒壇の大本尊』の客人である」などという意義を言い出して、「戒壇の大本尊」なる板本尊を格蔵する宝蔵の前に客殿を創建した。大石寺に供養をもってくる信者は、「戒壇の大本尊」なる板本尊の客人であるとは、よく言ったものである。

大石寺9世日有が客殿を創建するに当たってモデルにしたのは、天台寺門宗総本山・園城寺の勧学院客殿ではないかと思われる。

現在の園城寺勧学院客殿は、1600(慶長5)年、毛利輝元を奉行とした豊臣秀頼による再建だが、「三井続灯記」によれば、園城寺勧学院の創建は1313(正和2)年となっている。

つまり大石寺9世日有の1432(永享4)年の京都天奏の時代には、すでに園城寺に勧学院客殿は存在していたのである。

現在、園城寺勧学院は一般には非公開となっているが、資料によると唐破風(からはふ)を付けた車寄せがあり、東南部に中門があるという。勧学院客殿の中は、表列(南側)、中列、奥列(北側)に各3室、39室からなり、表から奥にすすむにしたがい、公的な対面所から私的な部屋になる。ただし、各室の襖を開放すれば大部屋になり、勧学院、つまり学問所として対応できるしくみになっている。つまり各室の襖を開放することで、客を応対するために造った殿舎を儀式や行事を修する堂宇として活用できる、というわけである。

客殿において、儀式や行事を修するという点においては、大石寺9世日有は、園城寺の勧学院客殿をモデルにした可能性が高い。

大石寺9世日有が本門事の戒壇に祀るべき本尊として「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作して宝蔵に格蔵し、客殿を創建して客殿の根本本尊として、開祖日興の「座替わり本尊」を祀ったことによって、ここに大石寺の基本的な化儀が確立することになる。

大石寺の信者が大石寺に参詣して、宝蔵で「戒壇の大本尊」なる板本尊の御開扉を受け、客殿での御講や法要に参詣し、それらの行事・法要に参詣する信者が供養を大石寺に差し出して、大石寺が経済的に潤っていくというシステムが、大石寺史上はじめてここに確立することになった。