■論破9・日蓮正宗の正式見解と矛盾する漆・金箔加工の法華講員の言い訳1

 

日蓮正宗の正式見解と矛盾する漆・金箔加工の法華講員ブルーシールの言い訳

 

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(日蓮正宗謀略機関紙『慧妙』の妄説)

「弘安二年十月十二日」というのは、当然のことながら御聖筆をもっての大御本尊御図顕の日であって、彫刻や塗箔のなされた日ではないからである。この点を指摘しておけば、十分に事足りるであろう。

(平成191016日付け日蓮正宗謀略機関紙『慧妙』p4)

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(洗脳法華講員・ブルーシールの妄説)

大聖人の時代に経済的に金箔加工が不可能だとして、それがどうしたというんでしょうね?

最初にしたためたのは大聖人で、後の時代に金箔加工されたということだって十分ありえるじゃないですか。現代でも、御本尊様をしたためてから、それを金箔加工するまでに、かなりのタイムラグがあることは珍しくありません。

大聖人の経済力の無さは、大御本尊様偽作の証拠にはなりません。

(洗脳法華講員・ブルーシールの2011122日のmixi日記)

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日蓮自らが経済力がないことを遺文(御書)で認めているにも関わらず、あくまでも「日蓮には経済力があった」などと強弁しようとするのが洗脳法華講員・龍神ひろしや黒川和雄なる者の妄説であるのに対して、上記の日蓮正宗謀略機関紙『慧妙』や洗脳法華講員・ブルーシールの妄説は、日蓮には経済力がなかったことを認めた上で、図顕の日と彫刻や塗箔の日は別の日だとか、図顕したのは日蓮だが、金箔加工は後の時代になされたというものである。

一見してもっともらしく見える『慧妙』やブルーシールの妄説は、大石寺歴代法主の説法や日蓮正宗宗務院の見解と、真っ向から食い違っているものである。

「戒壇の大本尊」の彫刻・漆加工・金箔加工に関する日蓮正宗大石寺の正式見解は以下のようになっている。

「大聖、戒壇院の本尊を書し、日法之を彫刻す。今の板本尊是れなり」

(堀日亨編纂『富士宗学要集』5P244収録/日蓮正宗大石寺17世法主日精の著書『家中抄』

「蓮祖満悦し、本門戒壇の大御本尊を書して日法に命じ之を彫刻せしむ」

(堀日亨編纂『富士宗学要集』5P320収録/日蓮正宗大石寺48世法主日量の著書『富士大石寺明細誌』

戒壇大本尊1大正4年由井本1

「弘安二年(1279)十月十二日に出世の本懐として『本門戒壇の大御本尊』を顕されたのです。この御本尊は末法万年の流布を慮られて、楠の厚き板に御図顕され、弟子の日法に彫刻を命ぜられています」(「日蓮正宗入門」p112)

このように、日蓮正宗の正式見解として、日蓮は紙幅の本尊ではなく、楠の板に直接、本尊を図顕し、弟子の日法に彫刻を命じたものであると言っている。

日蓮正宗宗務院教学部発行の「戒壇の大御本尊誹謗の悪書『日蓮と本尊伝承』を破す」では

「もとより戒壇の大御本尊は大聖人の出世の本懐であり、将来的に本門の戒壇に御安置し、末法万年に伝持されるべき御本尊であることを拝せば、塗漆や金箔による装飾がなされることは、むしろ当然と言うべきである」(「戒壇の大御本尊誹謗の悪書『日蓮と本尊伝承』を破す」p104)

と書かれていて、大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊の「塗漆や金箔による装飾」は、日蓮在世の時代になされていたことを説いている。

 

大石寺17世日精や大石寺48世日量の文、あるいは「日蓮正宗入門」の日蓮正宗の公式見解に書かれた「日蓮が弟子の日法に板本尊の彫刻を命じた」とすれば、その彫刻は、遅くとも日蓮在世の時代には、完成させていたと結論づけるべきである。当時の時代における、師弟関係の常識からすれば、当然のことだろう。日蓮が彫刻を命じたのに、日法が彫刻を日蓮の存命中に完成していなかったなど、有りえない。

したがって、「慧妙」やブルーシールは、ゴマカシに躍起になろうとしているが、日蓮正宗大石寺法主や宗務院の見解は、「戒壇の大本尊」なる板本尊の「彫刻」「漆加工」「金箔加工」は、日蓮が生きていた時代に完成していたという見解を示しているとしか、考えられないだろう。