■論破11・日蓮正宗の正式見解と矛盾する漆・金箔加工の法華講員の言い訳3

 

□大石寺の歴代法主自らが否定している「紙墨の戒壇大本尊・後代彫刻・漆金箔加工説」

 

日蓮正宗謀略機関紙「慧妙」や洗脳法華講員・ブルーシールが「最初にしたためたのは大聖人で、後の時代に金箔加工された」という妄説は、「日蓮が紙墨に認めた紙幅の戒壇の大本尊を9代日有が彫刻した」と言った大石寺34代学頭・久遠院日騰の妄説と同じである。

日蓮正宗大石寺52世鈴木日霑が35代大石寺学頭だったので、久遠院日騰は鈴木日霑よりも一つ前の学頭ということになる。学頭とは大石寺次期法主に内定した人物のことで、久遠院日騰は大石寺51世日英から学頭に任命されたが、法主には登座せず、鈴木日霑が35代大石寺学頭になり、そのまま大石寺52世法主に登座している。

その後、久遠院日騰は1854(安政1)11月の安政の大地震でのケガが元で、翌1855(安政2)10月に48才の若さで死去している。

明治初期に北山本門寺34代貫首・玉野日志氏と日蓮正宗大石寺52世鈴木日霑との間の「霑志問答」で、玉野日志が鈴木日霑に、久遠院日騰の説についてこのように書いている。

 

「其彫刻は現に久遠院弁妙・国学の友大堀有忠今尚存生に語って云く、大石寺に戒壇の本尊有り、惜しいかな九代日有師之を彫刻して其の本紙を失すと」

(『両山問答・本門寺問の部』日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』7p44)

 

これに対して大石寺の鈴木日霑は、次のように答えている。

「其の彫刻は久遠院便妙・国学の友大堀有忠に語って云くとは死人に口なし、能き証人なり。彼の便妙なる者、吾が信者ならざる方外の友杯に妄りに法話をすべきの人にあらず。是れ必ず死して其の人の亡きを幸いとし斯る胡乱なる証人を出し給ひし者か。若し万が一彼の人にして此の語あらば、彼の人の殃死は必ず此の妄言を出せし現報なるべし」

(『両山問答・大石寺答の部』日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』7p101)

 

大石寺52世鈴木日霑は、もし万が一にも久遠院日騰が本当に国学の友大堀有忠に「大石寺に戒壇の本尊があるが、これは大石寺九代日有が彫刻した本尊で、日有は日蓮が紙墨に認めた戒壇本尊を失してしまった」と語ったならば、久遠院日騰が安政の大地震でのケガが元で死去したのは、この妄言を言った仏罰の報いなのだ、と言っている。つまり鈴木日霑は、久遠院日騰が言ったとされる「日蓮が紙墨に認めた戒壇本尊を大石寺九代日有が彫刻した」という説を言下に否定しているのである。

 52世日霑

又、日蓮正宗大石寺67世阿部日顕法主はかつて

「まず、『直筆である紙幅の本門戒壇の御本尊は、現在宝蔵に保管されています』と言っていますが、大石寺の御宝蔵にはもちろんのこと、この世のいずこを探しても、彼等の言う『紙幅の戒壇の大御本尊』なるものは存在しません。このような“前代未聞”の珍説がどこから生まれたか判りませんが、これも創価学会お得意の、ないものをあったが如く偽る、悪しき体質の一例です。」

(『創価学会の偽造本尊義を破す』に載っている阿部日顕の説法)

と説法して、「最初に戒壇の本尊を紙墨にしたためたのは大聖人で、後の時代に金箔加工された」という妄説を言下に否定している。

「慧妙」や洗脳法華講員・ブルーシールが唱える「最初に戒壇の本尊をしたためたのは大聖人で、後の時代に金箔加工された」という妄説は、大石寺歴代法主の52世鈴木日霑や67世阿部日顕によって完全に否定されているという自己矛盾に陥っているのである。

ここに彼等の妄説の破綻は明らかであろう。

67世日顕4