■論破6「民部日向造立の板本尊」は大石寺「戒壇の大本尊」とは全く無関係である3

 

身延山久遠寺の日向造立板本尊のモデルは禅宗が中国から伝来せしめた寺位牌である2

--------------------------------------------------------

(日蓮正宗大石寺66世法主細井日達の妄説)

正安2年は、日興上人身延離山から11年の後であります。更に、その後13年も日向は身延に在住しております。そして、この板御本尊は身延の本堂の本尊としておったことは、この板御本尊造立の正安2年より51年も後の観応2年、辛卯の年に

「身延山久遠寺同御影堂、大聖人御塔頭、塔頭板本尊  金箔 造営修造結縁」(『日蓮宗宗学全書』第1巻)と中山3代日祐の『一期所修善根記録』に書き残してあります。

これをもって身延の御影堂の大聖人の御厨子の中に、日向造立の板本尊が安置してあったことはあきらかであります。(中略) 一尊四士の釈尊像を中心とする日向が、板本尊を造立したということは、その前に戒壇の大御本尊が存在していたという正しい証明であります。この日向造立の板本尊は、今は富士に気兼ねしてか本堂にまつらず倉庫の中に隠匿しているのであります。

(日蓮正宗大石寺66世法主細井日達『本門戒壇の疑難に対する弁駁』

-------------------------------------------------------------

日蓮正宗では民部阿闍梨日向が、1300(正安2)12月に身延山久遠寺で「板本尊」を造立したなどと盛んに言っているが、日向が造立したのは、板「本尊」ではなく、板「位牌」である。

板位牌は、「寺位牌」「本位牌」と呼ばれるもので、鎌倉時代の当時、禅宗とともに中国から日本に伝来した「位牌」の一種である。

その証拠が、これに書かれている脇書きである。脇書きには、

「右、日蓮幽霊成仏得道乃至衆生平等利益の為に敬って之を造立す」

となっていて、この「幽霊成仏得道」「乃至衆生平等利益の為」という文字が、まさに亡者菩提のためであるということ、則ち「寺位牌」「本位牌」として、建立されたものであることを物語っている。

もし日向が、本当に「戒壇の大本尊」なる板本尊の代わりにこれを造立したならば、脇書きは「乃至衆生平等利益の為」ではなく、「戒壇の大本尊」なる板本尊の脇書きと同じの「右現当二世の為に造立件の如し」にするはずではないか。

そもそも寺位牌・本位牌という化儀は、日蓮正宗にはなく、日蓮宗、禅宗、浄土宗、真言宗、時宗にある化儀であるので、これをインターネットフリー百科事典から引用する。

「『寺位牌』

本位牌の他に、菩提寺(旦那寺)や本山に供養の布施と共に納める位牌。寺では位牌堂や本堂内に安置し、朝夕の勤行の際に供養される。」

特に「寺位牌」は、ほとんど「本尊」と同じように扱われていることがわかる。これは証拠の第二。

位牌堂1総持寺祖院

 

証拠の第三は、そもそも日向が「日蓮出世の本懐」と自称する「戒壇の大本尊」なる板本尊を模倣して造立した「板本尊」だったら、身延山久遠寺本堂に半永久的に本尊として祀られているはずである。しかし、そうはせずに、ある一定の期間が過ぎたら、倉庫に閉まってしまったということは、これが本尊ではなく、「寺位牌」だったからに他ならない。

「位牌」というものは、ある一定期間が過ぎたら、倉庫に閉まってしまうものだからである。

証拠の第四は、身延山久遠寺本堂に、板曼荼羅が中心本尊として祀られるということは絶対にあり得ない、ということである。

身延山久遠寺本堂の中心本尊とは、一塔両尊四士と日蓮像を中心にした大曼荼羅の勧請を立体像化した立体本尊である。一塔両尊四士とは南無妙法蓮華経・釈迦如来像・多宝如来像と上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩の四菩薩像である。

これは昔から決まっていることで、今も変わらない。私の言うことがウソだと思うなら、実際に身延山久遠寺本堂に行って、何が祀られているのか、見学してきたらいいではないか。

だから、通称・日向造立「板本尊」が身延山久遠寺本堂に祀られていた、というのは、寺院の本尊として祀られていたのではない。「本堂内に安置し、朝夕の勤行の際に供養される」寺位牌として祀られていたことが明らかである。

日蓮正宗の信者たちは、日蓮宗の本尊や化儀を全く知らず、本堂に祀られていれば、何でもかんでも寺院の中心本尊だと思っているらしいが、彼らの浅学ぶり、浅識ぶりは、ここまで来ると、もはや呆れ果てるばかりである。

 

最後に一言。「板本尊だと言ったのは日蓮宗・中山法華経寺の文献に出てくるもので、日蓮宗が本尊だと言っているではないか」との妄言について、軽く論破しておく。

この妄言も、日蓮正宗の信者が、いかに日蓮宗の本尊や化儀に暗く、自らの浅学・浅識を暴露して恥じない人たちなのかを物語るものである。

日蓮宗では、大曼荼羅そのものを寺院の中心本尊とはしていないが、「大曼荼羅御本尊」と言って、曼荼羅も「御本尊」と言うのである。日蓮宗で、大曼荼羅のことを大曼荼羅本尊と言うのは、あくまでも日蓮宗僧侶・信者の日々の信行の本尊として崇めている、ということから「大曼荼羅御本尊」と言うのであって、寺院の中心本尊という意味なのではない。

日蓮宗寺院の中心本尊は、あくまでも一塔両尊四士と日蓮像を中心にした大曼荼羅の勧請を立体像化した立体本尊。ないしは両尊四士像。大曼荼羅も「本尊」と言うが、それは日蓮宗僧侶・信者の日々の信行の本尊という意味である。

法華講員たちは、浅学・浅識ぶりを自分で暴露しないように、もっと日蓮宗の本尊や化儀について、もっと学習しておいたらどうなのかね。