■検証52・大石寺の歴代法主によって見解がバラバラになっている「日興跡条条事」

 

□歴代法主によって見解がバラバラであるのは「日興跡条条事」が日興真筆ではない証拠

 

大石寺の偽作本尊、偽作文書の特色のひとつとして、大石寺の歴代法主によって、見解がバラバラになっている、というものがある。

例えば、大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊の脇書に出てくる「本門戒壇の願主」である「弥四郎国重」の人物伝は、法主によって言っていることがバラバラであり、どういう人物なのか、日蓮正宗としても特定できない、というものがある。大石寺歴代法主のみに相承されてきたと自称する「戒壇の大本尊」の「本門戒壇の願主」である「弥四郎国重」の人物伝が、歴代の法主によって見解がバラバラになっているということは、明らかな矛盾である。もし本当に「戒壇の大本尊」なる板本尊が、大石寺歴代法主によって血脈相承されてきたとするならば、「弥四郎国重」の人物伝が、歴代の法主によって見解がバラバラになるはずがない。つまりこれは、「戒壇の大本尊」なる板本尊が、日蓮の造立ではない、後世の偽作である馬脚が現れている、ということである。

これと同じ事が、「日興跡条条事」にも言える。

「日興跡条条事」第二条の

「一、日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を相伝する。本門寺に懸け奉るべし」

については、日蓮正宗大石寺法主によって解釈が異なっている。これはどう考えても矛盾である。

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、実質的に「相傳之可奉懸本門寺」の九字を後加文としているが、日蓮正宗大石寺65世法主堀米日淳は「相傳之可奉懸本門寺」の九字の後加文が他人の筆ではなく、「日興上人が直々なされたことである」と言っている。(日淳上人全集p1462)

堀米日淳の見解によれば「相傳之可奉懸本門寺」の九字を後加したのも日興自身ということになるが、これはいささか説得力に欠ける。

「日興跡条条事」の「正本」をもし日興が清書したものであったならば、その日興が清書した文書に重書きするというのは、どう考えてもおかしい。それでは「正本」ではなく「草案」(下書き)ということになってしまう。

さらに奇妙なのは、どう考えてもおかしい日蓮正宗大石寺65世法主堀米日淳の見解を66世法主細井日達や67世法主阿部日顕が踏襲し、1972年版「歴代法主全書」1巻、1982年版「日興上人日目上人正伝」、1994(平成6)年版「平成新編御書全集」に、「相傳之可奉懸本門寺」の九字を後加した「日興跡条条事」を「正本」として、そのまま掲載している。

この時点で、大石寺59世堀日亨と、大石寺65世堀米日淳、大石寺66世細井日達、大石寺67世阿部日顕の見解が異なっていることが明らかである。

日興跡条条事2 

(昭和5549日付け聖教新聞に掲載されている『日興跡条条事』)

 

さらにもっと言うと大石寺17世法主日精が「富士門家中見聞」(家中抄)に記載した「日興跡条条事」、48世法主日量が「富士大石寺明細誌」(宝冊)に記載した「日興跡条条事」の文が、それぞれ異なったものになっている。

大石寺17世法主日精が「富士門家中見聞」(家中抄)に記載した「日興跡条条事」

「一、日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を授与する

元徳四年三月十五日 日興在り判」 (『富士宗学要集』第5p188)

 

大石寺48世法主日量が「富士大石寺明細誌」(宝冊)に記載した「日興跡条条事」

「一、日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を授与する。本門寺に懸け奉るべし。 元徳二年十一月十日 日興在り判」 (『富士宗学要集』第5p327)

 

こう見てみると、大石寺17世法主日精が「家中抄」に書いた「日興跡条条事」、大石寺48世法主日量が「宝冊」に書いた「日興跡条条事」は、第二条の文と日付がそれぞれ、大石寺59世法主堀日亨が正本と鑑定した「日興跡条条事」とも、大石寺65世法主堀米日淳、大石寺66世法主細井日達、大石寺67世法主阿部日顕が正本としている「日興跡条条事」とも異なったものになっている。つまり「日興跡条条事」は、法主によって「正本」の見解がバラバラになっているのである。

日蓮正宗によると「日興跡条条事」という文書は、日興が日目に血脈を相承した、大変重要な文書であるという。そんな大事な文書が、法主によって見解がバラバラであるという、こんな矛盾した話しもあるまい。

「日興跡条条事」という文書が、いかにインチキでいいかげんな文書であるか、という証左ではないか。