■検証53・大石寺歴代法主によって何度も偽作・改竄されてきた「日興跡条条事」

 

□天皇・朝廷から見て「正式官僧ではない」日目の申状を天皇に伝奏するはずがない

 

「日興跡条条事」の第二条の文である

「日興宛身所給弘安二年大御本尊□□□□□日目授與之」

の□□□□□の欠損箇所について、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、「相傳之可奉懸本門寺」の九字を加筆した後人の意図的な削除と解釈し、元々そこには「弘安五年御下文」との記述があったという説を唱えている。

堀日亨が欠損部分を「弘安五年御下文」としたのは、草案の記述を参考にしてのことと思われる。

堀日亨は「富士宗学要集」817ページに「正本、案文(下書き)共に総本山(大石寺)に現存す」と書き残している。

さらにこの「弘安五年御下文」とは、「御下し文すなわち園城寺申状についての官辺の文書」(堀日亨の著書『富士日興上人詳伝上』p161)

と堀日亨が述べている如く、園城寺申状を呈したことによって時の後宇多天皇から下された詔書、勅書の類の文書のことだと言っている。堀日亨の推考では、1281(弘安4)年に日興が代理として天奏した「園城寺申状」に対して翌年に天皇から賜った下し文を指し、それは後に紛失したとされている。それでは、なぜこの「弘安五年御下文」の文が何者かによって削除されたのか。

というより、さまざまな学術的研究によって、日蓮も日興も日目も、その生涯において、天奏(てんそう)、つまり京都に上って天皇に面談し言上したという事実は全くなければ、時の天皇から「御下文」を下賜されたという事実も全くないことが明らかになり、「弘安五年御下文」の文を削除せざるを得なくなったものと思われる。

日興も日目も、天皇が正式に勅許した戒壇、すなわち伝教大師最澄が朝廷の勅許で建立した大乗戒壇の比叡山延暦寺と、延暦寺以前からある日本三大戒壇である奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺のいずれでも授戒・度牒した経験がなく、天皇・朝廷や京都・奈良の仏教界から見て、正式に認められた官僧ではない。

したがって仮に、本当に1281(弘安4)12月に日目が日興の代理で園城寺申状を時の天皇に奏上しに京都に上洛したとしても、天皇から見れば「正式官僧ではない」日目の申状を朝廷が天皇に伝奏する道理が全くないのである。また、1281(弘安4)12月と言えば、日興や日目の師匠である日蓮がまだ生きていた時代のことである。日蓮は、立宗宣言をする以前に、比叡山延暦寺をはじめ京都・奈良の南都六宗・八宗で修行し、授戒した僧侶である。したがって、日目が仮に申状を携えて京都に上洛したとしても、伝奏が申状を天皇に取り次がれないことは日蓮は百も承知であった。その日蓮がわざわざ日目に「園城寺申状」なる文書を持たせて、京都に上洛させるはずがない。

日興跡条条事2 

(昭和5549日付け聖教新聞に掲載されている『日興跡条条事』)

 

 

□「日興跡条条事」が偽作文書だと確信犯的に何度も改作を繰り返してきた(?)大石寺

 

それに代わって、「可奉懸本門寺」(本門寺に懸け奉るべし)の文を書き加えた。「授与之」を「相伝之」と上書きしているということは、どういうことかというと、本尊の脇書きに「授与之」と書いてしまうと、個人授与の本尊ということになり、代々の法主に相伝していくときに、一々授与書が必要ということになる。

これは無理だと考えたのか、「日興跡条条事」の偽作者は、第二条の「授与」を「相伝」と上書きすることによって、「大石寺歴代法主=日目」という教義を発明した。つまり大石寺客殿の大導師席を日目の座であると称して、その大導師席に座る法主は全員が日目であると定義づけた。大石寺歴代法主は全員、日目であると定義づけ、「日興跡条条事」の「授与」を「相伝」と上書きすることによって、日目以降の法主の代替にともなう「戒壇の大本尊」なる板本尊の授与書を不要にしてしまったということである。こうして「日興跡条条事」という文書を精密に研究していくと、

□大石寺17世日精が「富士門家中見聞」(家中抄)に記載した「日興跡条条事」、

日付が「元徳四年三月十五日」になっている

□大石寺48世日量が「富士大石寺明細誌」(宝冊)に記載した「日興跡条条事」

日付が「元徳二年十一月十日」になっている

□大石寺59世堀日亨が「正本」と鑑定した「日興跡条条事」

第二条が「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊、弘安五年の御下文、日目に之を授与する」となっていて、日付が「十一月十日」と、元号がない。

□大石寺65世堀米日淳、大石寺66世細井日達、大石寺67世阿部日顕が「正本」だと言っている「日興跡条条事」第二条が「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を相伝する。本門寺に懸け奉るべし」となっていて、日付が「十一月十日」と、元号がない。

 

これらのものが全て、内容がそれぞれ異なったものになっている。

これらの事実を照らし合わせると、「日興跡条条事」は、日蓮正宗大石寺の歴代法主によって、何度も偽作され、後加文を付け加えたり、意図的に文を欠損させてきたことが明らかとなる。

それにしても、もし「日興跡条条事」という文書が本当に日興の真筆の文書だというのなら、こんなに何度も何度も改作したり、文を末梢したり、していいのか?

こういうことをしていること自体、日蓮正宗大石寺は「日興跡条条事」という文書は、ニセ文書であると認識しており、確信犯的に文書を改作しているのではないかとすら思えてくる。偽作文書を何度でも造って平然と自らを正統化してはばからない日蓮正宗大石寺のドス黒い体質が見えるではないか。