■検証59・「日興跡条条事」第二条の「可奉懸本門寺」は「日興跡条条事」偽作の証拠ではない

 

□「懸ける」の意味には「目につくように高い所に掲げる」という意味が含まれている

 

日蓮正宗の元信者の著述家・美濃周人氏が著書「虚構の大教団」の中の「半丸太の本尊を、どうやって『懸ける』か」の項目で、「日興跡条条事」の第二条の

「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を相伝する。本門寺に懸け奉るべし」(日興宛身所給弘安二年大御本尊   □□□□□日目相傳之可奉懸本門寺)

の文について、面白い見解を発表している。

「ここにある、『懸け奉るべし』という表現に注意してほしい。『懸ける』とは『懸ける』ことである。たとえば帽子をフックにかける。服をハンガーにかけるの『懸ける』である。ということになると、おかしなことになってしまう。紙幅の本尊なら『懸ける』ことはできる。板本尊でも『懸ける』ことはできる。しかし半丸太の本尊では『懸ける』ことはできない。しかし日興は日目に『戒壇の大本尊を懸けろ』と教えている。これはどういうことなのだろうか」(美濃周人氏の著書『虚構の大教団』p133)

「半丸太の本尊をどうやって『懸ける』というのだろうか。そこでいろいろ私も考えてみた。半丸太の、それも推定でも280キロもある本尊を、である。しかし私の頭でいくら考えても、その『懸けかた』がわからない。『安置せよ』とか『据え付けろ』というのなら、まだ話はわかる。しかし『懸ける』では、意味がわからない」(美濃周人氏の著書『虚構の大教団』p134)

 

美濃周人氏が言う「半丸太の本尊」とは、大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊のことである。つまり美濃周人氏が言わんとするところは、重さが推定280キロもある「戒壇の大本尊」なる板本尊は『懸ける』ことはできない。だから「日興跡条条事」第二条の

「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を相伝する。本門寺に懸け奉るべし」の「弘安二年の大御本尊」と「本門寺に懸け奉るべし」は矛盾する。だからこれは偽作だ、というものである。

しかし美濃周人氏の論は誤っており、「本門寺に懸け奉るべし」の文そのものが「日興跡条条事」偽作の証拠ではない。それは「懸ける」という言葉の意味を深く検証すれば、判明することである。

「懸ける」とは、辞書によると「高い所からぶらさげる。上から下にさげる。垂らす。目につくように高い所に掲げる。高く上げて張る。」と載っている。

文例としては、「すだれを懸ける」「バッグを肩に懸ける」「看板を懸ける」「獄門に懸ける」「帆を懸ける」とある。つまり「懸ける」という言葉の意味には、「高い所からぶらさげる。上から下にさげる。垂らす」の他に、「目につくように高い所に掲げる。高く上げて張る。」という意味が含まれているのである。

日興跡条条事2 

(昭和5549日付け聖教新聞に掲載されている『日興跡条条事』)

 

 

したがって「弘安二年の大御本尊」を大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊と解釈しても、「目につくように高い所に掲げる」ことはできるわけだから、「弘安二年の大御本尊」と「本門寺に懸け奉るべし」の二つの言葉は矛盾することはない。

現に、日蓮正宗大石寺では、「戒壇の大本尊」なる板本尊を、奉安殿でも正本堂でも奉安堂でも、「目につくように高い所に掲げ」ているではないか。

したがって、美濃周人氏の言う、重さが推定280キロもある「戒壇の大本尊」なる板本尊は『懸ける』ことはできないから、「弘安二年の大御本尊」と「本門寺に懸け奉るべし」は矛盾する。だからこれは偽作だ、という説は誤りであり、この「本門寺に懸け奉るべし」の言葉が偽作の証拠とは言えないのである。

虚構の大教団1