■検証60・美濃周人氏の「日興跡条条事」小泉久遠寺日義初出・偽作説は誤りである

 

□「日興跡条条事」はすでに大石寺9世日有の代に初めて文献に登場している

 

日蓮正宗の元信者で「日興跡条条事」偽作説を唱える美濃周人氏が著書「虚構の大教団」の中で、「日興跡条条事」が歴史上、はじめて他の文献に登場するのは、1544(天文13)年の小泉久遠寺の代官・日義の文書であり、「日興跡条条事」を偽作した人物は、小泉久遠寺の代官・日義であるという説を唱えている。

小泉久遠寺とは、静岡県富士宮市にある日蓮宗の本山(由緒寺院)。ここは元々、日興の法脈を継承する富士門流に属し、静岡県の駿東地方に分布する北山本門寺、西山本門寺、大石寺、下条妙蓮寺とともに富士門流の「富士五山」を構成する。また、さらに京都要法寺、伊豆実成寺、保田妙本寺とあわせて「興門八本山」のひとつにも数えられる本山寺院である。

その小泉久遠寺は、保田妙本寺とともに日郷の門流の本山寺院であり、宗祖日蓮、二祖日興、三祖日目、開基日郷を第4代に列している。

日義という人物は、小泉久遠寺・保田妙本寺14代貫首・日我の時代に、小泉久遠寺の代官(今の住職代務者にあたる)だった人物である。したがって日義は歴代貫首には列せられていない。

この小泉久遠寺の代官・日義は、む日蓮正宗では、三祖日目・4世日道の血脈断絶説を唱えた人物として有名である。美濃周人氏が「歴史上はじめて日興跡条条事が登場した」と唱えている文書とは、以下の文書である。

「日興上人大石寺置文に云わく一閻浮提の内、諸山寺を半分と為して、日目座主為る可し。其の半分は自余の大衆に之を配る可し。日興遺跡は新田宮内卿阿闍梨日目最前上奏の人に為れば、大石寺の別当と定む。寺と云ひ、御本尊と云ひ、墓所と云ひ又云く、仏は水、日蓮聖人は木、日興は水、日目は木。右此の御血脈等は御正本房州妙本寺に之有り。天文十三年甲辰極月二十五日、謹んで之を抄書し奉る」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』5p33)

 

この小泉久遠寺代官・日義の文書は1544(天文13)年の文書だが、これよりも先の1476(文明8)523日の「土佐吉奈連陽房聞書」という、土佐吉奈連陽房が日蓮正宗大石寺9世法主日有の説法を書きとどめた文書に「日興跡条条事」が出て来ている。

よって美濃周人氏の小泉久遠寺の代官・日義の偽作説は誤りと言うことになる。

ところで小泉久遠寺代官・日義は、大石寺三祖日目と大石寺4世日道の血脈断絶説を唱えた人物だが、小泉久遠寺・保田妙本寺14代住職(貫首)の当職だった日我は、大石寺の「戒壇の大本尊」日蓮造立説や「日蓮本仏義」を唱え、教学的にかなり大石寺9世日有の教学に傾斜していた人物であった。小泉久遠寺・保田妙本寺14代貫首が大石寺教学に傾斜しているのに、代官が大石寺の血脈を否定しているというのも面白いが、そういう時代背景の中で、「日興跡条条事」が小泉久遠寺・保田妙本寺の日郷門流にまで知られていたというのは注目に値すると言えよう。

日興跡条条事2 

(昭和5549日付け聖教新聞に掲載されている『日興跡条条事』)