■検証62・大石寺二祖日興・三祖日目の代に「戒壇の大本尊」は存在していなかった

 

□「弘安二年の大御本尊」とは「戒壇の大本尊」のことで「万年救護の大本尊」ではない

 

「日興跡条条事」の第二条の文「一、日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を相伝する。本門寺に懸け奉るべし」

の中の「弘安二年の大御本尊」とは、大石寺格蔵の「戒壇の大本尊」とする説が通説であるが、しかし「弘安二年の大御本尊」とは、保田妙本寺格蔵の「万年救護の大本尊」とする説も存在する。

この「弘安二年の大御本尊・万年救護本尊説」の最大の根拠は、大石寺17世日精の著書「家中抄」にある文

「弘安二年に三大秘法の口決を記録せり。此の年に大漫荼羅を日興に授与し給ふ万年救護の本尊と云ふは是れなり。日興より日目に付属して今房州にあり」(富士宗学要集5p154)

を根拠とする、弘安二年に「万年救護本尊」が日蓮から日興に授与されたとして、「弘安二年の大御本尊」とは、保田妙本寺格蔵の「万年救護の大本尊」とする説が存在する。

この「弘安二年の大御本尊・万年救護本尊説」は、大石寺の「戒壇の大本尊」を後世の偽作とするが、「日興跡条条事」を真書ないしは真偽未決とする説を立てる宗派、はっきり言って日蓮正宗以外の富士門流に見られる。東佑介氏は「富士大石寺所蔵『日興跡条条事』の考察」の中で、「弘安二年の大御本尊・万年救護本尊説」を唱える学者として「変質した創価学会」の著者・松本勝弥氏、「日蓮と本尊伝承」の著者・金原明彦氏を挙げている。

又、日蓮宗・早坂鳳城氏が「六巻抄の構造と問題点」の中で、日蓮正宗以外の富士門流が「弘安二年の大御本尊・万年救護本尊説」を唱えていることを根拠に、「弘安二年の大御本尊・万年救護本尊説」を支持する見解を載せている。

しかし「弘安二年の大御本尊・万年救護本尊説」は誤りであり、「日興跡条条事」の第二条の文

「一、日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を相伝する。本門寺に懸け奉るべし」の中の「弘安二年の大御本尊」とは、大石寺格蔵の「戒壇の大本尊」である。

ではなぜ「弘安二年の大御本尊・万年救護本尊説」は誤りなのか。

まず、日蓮宗でも富士門流でも、日蓮正宗でもそうだが、「△△○年の御本尊」と言うときは、その曼荼羅本尊に書かれている図顕年月日を指すのが常識である。相伝年月日や授与年月日のことではない。

かくして保田妙本寺格蔵の万年救護本尊の図顕年月日は「文永十一年」であり、これは「弘安二年の大御本尊」ではない。万年救護本尊を指して言うときは「文永十一年の御本尊」と言う言い方になる。

日興跡条条事2 

(昭和5549日付け聖教新聞に掲載されている『日興跡条条事』)

 

 

□「弘安二年の大御本尊」を保田妙本寺の「万年救護の大本尊」であるとする説は誤りである

 

さてそれから大石寺17世日精が「家中抄」にある文

「弘安二年に三大秘法の口決を記録せり。此の年に大漫荼羅を日興に授与し給ふ万年救護の本尊と云ふは是れなり。日興より日目に付属して今房州にあり」(富士宗学要集5p154)

と書いていることだが、これについては直接的文献も証拠も何もない。「家中抄」そのものは、基本的に伝説を集めて書き上げたことを日精自身が「家中抄」末文で述べているくらいである。

又、大石寺17世日精は「家中抄稿本」の中で、たしかに

「日興が身に充て給はる所等とは万年救護御本尊の事なり」

と述べているが、清書した「家中抄」では、今度は一転して

「日興が身に充て給はる所等とは板御本尊の事なり。今当山に御堂が有るは板御本尊が有る故なり」とて、「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊」とは「戒壇の大本尊」のことであると述べている。よって大石寺17世日精が「家中抄」にある文を以て、「弘安二年の大御本尊・万年救護本尊説」を立てるのは誤った見解である。

それではなぜ日蓮正宗以外の富士門流では、「弘安二年の大御本尊・万年救護本尊説」を立てるのか、ということになる。

「アンチ日蓮正宗」では、大石寺の「戒壇の大本尊」から二箇相承、日興跡条条事、百六箇抄、本因妙抄、産湯相承事、御本尊七箇相承、本尊三度相伝等の大石寺が相伝書と称しているもの全て、日蓮本仏義や血脈相承という根幹の教義が後世の偽作、その大半は大石寺9世日有の偽作だと言っている。「日蓮正宗」系と同系列の富士門流(日興門流)は、これが気にくわない。

それはそうですね。二箇相承、日興跡条条事、百六箇抄、本因妙抄、産湯相承事、日蓮本仏義や血脈相承等が後世の偽作、ということは、富士門流(日興門流)の否定につながる。日蓮本仏義や血脈相承が大石寺9世日有の偽作ということになると、今も日蓮本仏義や血脈相承を立てる富士門流(日興門流)は、大石寺9世日有教学に毒されている、ということになる。これでは富士門流にとっては、まことに都合が悪い。だから富士門流(日興門流)では、こういった教学の真実を、無理矢理にでも、ねじ曲げて歪曲しようとする。

富士門流(日興門流)でも、大石寺の「戒壇の大本尊」偽作説を言う人はいる。がしかし、所詮、このあたりまで。かつてインターネット上に「富士門流信徒の掲示板」というものがあり、ここで繰り返されてきた教学も、教学の真実を、無理矢理にでも、富士門流に都合がいいように、ねじ曲げて歪曲しようとする「歪曲教学」である。

つまり「日興跡条条事」も、「弘安二年の大御本尊・大石寺の戒壇の大本尊説」では都合が悪い。これだと「日興跡条条事」は偽書だということになり、富士門流教学そのものが否定されてしまう。

だから富士門流に都合がいいように、ねじ曲げて歪曲し「弘安二年の大御本尊・万年救護本尊説」を立てるわけである。