■論破68反論不能男・龍神ひろしの支離滅裂な妄言を笑う2

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(「アンチ日蓮正宗」に降伏宣言した国賊せまし(仮名)の妄言)

小氷河期だったならば、楠木が生息出来なかったならば、その当時、身延周辺は、作物も無し、不作続きだったとする文献または、御書を出すべきであろう。

今現代でも、大寒波があるが?大寒波について、御書に書いてあるからと言って、楠木が存在しないとはならないし、小氷河期とはならない。

(20120115日の楽天センズリブログの日記)

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全くもって大爆笑ものです。日蓮の遺文(御書)については、とっくに論証済みである。

日本の学者の説でも12001900年 の約700年間を「 鎌倉・江戸小氷期」という、いわば小氷河期に位置づけているが、これを裏付ける記述が、実は、日蓮の遺文(御書)にある。

日蓮57才の時に書いた「兵衛志殿御返事」(弘安元年1129)では

「雪かたくなる事金剛のごとし。今に消ゆる事なし。昼も夜も寒く冷たく候事、法にすぎて候。酒は凍りて石のごとし。油は金に似たり。鍋・釜に小水あれば凍りて割れ、寒いよいよ重なり候へば、着物うすく、食乏しくして、さしいづるものもなし」・・・・(御書全集p1294)

「坊は半作にて、風、雪たまらず、敷物はなし。木はさしいづるものもなければ火もたかず。古き垢づきなんどして候、小袖一つ着たるものは、其の身の色、紅蓮・大紅蓮のごとし。声は波々大波々地獄にことならず。手足寒じて切れさけ人死ぬことかぎりなし」 (御書全集p1295)

さらに日蓮58才の時には「上野殿御返事」(弘安21227)の中で次のように述べている。

「・・・五尺の雪ふりて本よりも通わぬ山道ふさがり、訪いくる人もなし。衣も薄くて寒ふせぎがたし。食たへて命すでに終はりなんとす・・・」(御書全集p1437)

 

日蓮の草庵跡がある身延山の西谷は、現在、「五尺の雪」どころか、降雪そのものがあることは、非常にまれである。五尺とは、約1メートル50センチにもなり、こんな大雪は、今では新潟、東北、北海道の豪雪地帯の山間部にでもいかないと、あり得ない大雪である。もちろん、今の身延山の西谷に、こんな豪雪が降ることはない。「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」の議論で

「否、日蓮は大げさに言っているのであり、話半分以下で解釈すべきだ」

と弁解した人がいたが、仮に三分の一としても降雪は50センチということになる。身延町教育委員会職員の証言によれば、今の身延町・身延山久遠寺の西谷に50センチの降雪があることは、めったにないという。

また日蓮は、低温ぶりを「紅蓮地獄か、大紅蓮地獄のようだ」と言い、「手足寒じて切れさけ人死ぬ」とは、凍傷による死傷のことと思われる。凍傷による死傷は、状況にも依るが、氷点下のかなり低い気温であったのではないかと推定される。今の身延山の冬で、凍傷による死傷者が出たとは、聞いたことがない。

雪の北北線79


したがって、これらの日蓮の遺文(御書)の文は、学者の説である、12001900年 の約700年間が「鎌倉・江戸小氷期」だったこと。なかんずく鎌倉時代の身延山がまさに「鎌倉・江戸小氷期」だったことを裏付けるものではないか。

1970(昭和45)年に発刊された身延町の正式文献「身延町誌」の中に、明治34~昭和25年にかけての身延町をはじめ、山梨県各地の平均気温と降水量が載っている。

http://www.town.minobu.lg.jp/chosei/choushi/minobu/T02_C02_S01_1.htm

そして、この平均気温について、次のようなコメントをつけている。

「年平均気温についてみると、山中より5.8度高く、小淵沢よりも4.0度高いが、甲府と比較してみると意外にも0.5度高いだけである。これは大陸性気候のため夏期に盆地の気温が急上昇し、峡南地区よりもかえって高温となるためであり、身延町の年平均14.7度という数字は、主として冬期の温暖によるところが大きい。」(身延町誌)

又、「国土交通省「UJIターン支援サイト」ふるさとサーチ」の「山梨県身延町・自然・気象」によれば

http://www.mlit.go.jp/crd/chisei/ujisearch/spec/19/19365_02.html

 

気候の特徴 山梨県でも比較的温暖で温暖多雨地帯である。  

   年平均気温  14.4   最高月平均気温  26.8

  最低月平均気温  1.9   降水日数  125

  年間降水量  2737mm   最大積雪深  10cm   積雪日数  3     

となっている。これらの公式データと比較しても、日蓮の遺文(御書)の文

「雪かたくなる事金剛のごとし。今に消ゆる事なし。昼も夜も寒く冷たく候事、法にすぎて候。酒は凍りて石のごとし。」・・・・(御書全集p1294)

「其の身の色、紅蓮・大紅蓮のごとし。声は波々大波々地獄にことならず。手足寒じて切れさけ人死ぬことかぎりなし」 (御書全集p1295)

「・・・五尺の雪ふりて本よりも通わぬ山道ふさがり、訪いくる人もなし。・・・」(御書全集p1437)

これらは、日蓮在世の時代の身延山の冬は、現代よりも、はるかに気温が低かったことを物語っている。

それから、大寒波?何を言っているの、この男は。

日本、中国、欧米の学者の研究に依れば、西暦13世紀から19世紀にかけて、平均気温が摂氏2度前後、低くなっていたと言っているのである。それについては、学者が書いた気温の変化図を写真で載せている。

今でも身延山に楠木は自生していないのに、平均気温が摂氏2度前後、低くなっていた小氷期には、なおさら身延山に楠木はなかったことが明白だと言っているのである。

中学生の理科のレベルなのは、龍神ひろしのほうである。