■論破10「戒壇の大本尊」が本当に身延山の日蓮の大坊に存在していたならば、弟子・信者の誰も知らないはずがない

 

□細井日達「第1回正本堂建設委員会」説法と著書「悪書『板本尊偽作論』を粉砕す」の自己矛盾を斬る

 

日蓮在世の時代の身延山の草庵に「戒壇の大本尊」なる板本尊が本当に存在していたならば、弟子・信者のだれも知らないはずがない、という議論に対して、日蓮正宗大石寺66世細井日達法主が、法主登座以前の著書「悪書『板本尊偽作論』を粉砕す」の中で、次のように反論している。

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(大石寺66世細井日達法主の説法)

「いちおう。この議論を聞くと、つじつまのあった、理の通った説のように聞こえるが、少し考えてみれば、このばかばかしい議論に呆れるのである。いったい、宗祖(日蓮)御在世の身延山の模様が、細大漏らさず記録されているとでもいうのか。今日、御書及び日興上人の御記録の他は、わずかしかないではないか。しかも、その記録も読まないで、記録にないというのは馬鹿げた議論ではないか。現に、日法上人の彫刻された(日蓮の)御影が現存し、世間はそれを認め、また(日蓮の)門下各宗において認めているところである。……このわずかな記録から、当時の(身延山の)模様を拝察することが肝心である」

(細井日達の著書「悪書『板本尊偽作論』を粉砕す」)

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細井日達法主の反論は、和泉公日法が彫刻した日蓮の御影像が存在しているから、和泉公日法彫刻の「戒壇の大本尊」なる板本尊が存在していたと勝手に『推論』しているだけで、身延山での「戒壇の大本尊」なる板本尊彫刻の記録が残っていないことは細井日達法主も認めている。

和泉公日法が彫刻したと伝えられている日蓮の御影像は、北山本門寺御影堂の御影像をはじめ、鎌倉・妙本寺の御影像、龍口寺の祖師像、小泉久遠寺の「生御影」と呼ばれる御影像など、各地に多数存在しているが、仮に和泉公日法が彫刻したと伝えられている日蓮の御影像があるからといって、和泉公日法が彫刻したという「戒壇の大本尊」が存在するという証拠になるはずがない。当たり前のことである。 しかも、大石寺奉安堂の「戒壇の大本尊」のとなりに鎮座している一体三寸の「最初仏」と呼ばれる日蓮の御影像は、後世の偽作である。

細井日達法主は、身延山久遠寺の当時の模様について詳細な記録が残っていないことを認めた上で、何の証拠も示さず、一足飛びに推論だけで、「身延山の本堂の本尊は、本門戒壇の大御本尊だった」などと無理矢理に結論つけているのであるが、これこそ史実歪曲の詭弁ではないか。

戒壇大本尊1大正4年由井本1 

 

しかも細井日達法主は、「悪書『板本尊偽作論』を粉砕す」なる本を書いたあと、法主に登座してから、「第1回正本堂建設委員会」の席における説法で、 こんな説法をしている。

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(大石寺66世細井日達法主の説法)

「戒壇の大御本尊は大聖人ご在世当時、また日興上人がいらした当時、身延山で本堂に安置されていたものであります。また当時は、大聖人のおいでになるところが本堂であり、ご入滅後は御本尊のおわしますところが、本堂となってきたものであります。そして本堂で御本尊に信者が参拝したのであり、大聖人ご在世当時、身延へ参拝したのは信者だけですから、だれでも直接に御本尊を拝めたのです」

 (日蓮正宗宗務院機関誌「大日蓮」昭和404月号/「聖教新聞」S40.2.20)

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身延山の本堂?で、本当に「戒壇の大本尊」なる板本尊の御開扉が行われ、細井日達法主が言うように「だれでも直接に御本尊を拝めた」のならば、それこそ身延山に登山参拝した弟子・僧侶や信者たちの目につくはずである。誰かしらの目にとまるはずである。だれも「戒壇の大本尊」の存在を知らないなどということは絶対に有り得ないではないか。

細井日達法主も、日蓮正宗も、「第1回正本堂建設委員会」の席における法主説法と、「悪書『板本尊偽作論』を粉砕す」なる細井日達法主の著書との矛盾について、何の説明もしていない。

日蓮正宗の法主ともあろう人物が、よくもこんなインチキなデタラメを平気で云えるものだと驚かされる。細井日達法主の説法・反論も何度も引用してきたが、その内容たるや、歴史的事実をことごとく無視し、道理や世間の常識を破り、ただその場だけ言い繕えば良いというやり方で、とにかくハッタリだろうがウソだろうが、我が身を守るために平気で言い繕う。日蓮正宗というインチキ宗教の正体を、こんなところにも垣間見るような気がする。

こういう何の証拠も具体的根拠も示さないで、推論だけで歴史を結論づけようとする細井日達法主の論法は、世間では何の説得力もない。そればかりか日蓮正宗という宗教が、いかに欺瞞的な説法をする宗教かということを物語って余りあるものといえよう。

66世日達13