■検証1・文献の伝承の経緯からして矛盾だらけの「二箇相承」1
□1480(文明12年)本是院日叶「百五十箇条」にはじめて全文が登場する「二箇相承」
「日蓮一期弘法付嘱書」(身延相承書)と「身延山付嘱書」(池上相承書)の二通の文書からなる、この「二箇相承書」(にかのそうじょうしょ)の偽作論は、この文献がいったいどのような経緯で、日蓮正宗大石寺に伝承されているのか、というところから検証せねばならない。
「二箇相承書」という文献が、いつの時代から、どのようにして今日まで伝承されてきたのかを、簡単にまとめると、次のようになる。
□1308年(徳治3年)9月28日 日頂「本尊抄得意抄副書」
「興上一期弘法の付嘱を受け日蓮日興と次第日興は無辺行の再来として末法本門の教主日蓮が本意之法門直受たり、熟脱を捨て下種を取るべき時節なり…」
「末法本門の教主日蓮」「日興は無辺行の再来」は日蓮の教説の中にはなく後世の偽書である。
□1336年(延元元年)9月15日 日順「日順阿闍梨血脈」
「日興上人は是れ日蓮聖人の付処…」
□1351年(正平6年)3月 日順「摧邪立正抄」
「日興上人に授くる遺札には白蓮阿闍梨と…」
□1380年(康暦2年) 日眼「五人所破抄見聞」
「日蓮聖人之御附嘱弘安五年九月十二日、同十月十三日の御入滅の時の御判形分明也」
戦国時代以降の筆法があり、富士妙蓮寺5代貫首・日眼ではなく西山本門寺8代貫首・日眼の作とされる。
□1468年(応仁2年)10月13日 要法寺12祖・日広書写本
日広本は非公開であるため、その具体的内容は不明
□1480(文明12年) 本是院日叶(左京阿闍梨日教)「百五十箇条」
本是院日叶(左京阿闍梨日教)が著書「百五十箇条」の中で「二箇相承」の全文を引用している。
「身延相承書 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す、本門弘通の大導師為るべきなり、国主此の法を立てられば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ・事の戒法と謂ふは是なり、中ん就く我門弟等此状を守るべきなり
弘安五年壬午九月十三日、血脈の次第・日蓮・日興、甲斐国波木井山中に於て之を写す」
「池上相承 釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当為るべし、背く在家出家共の輩は非法の衆為るべきなり
弘安五年壬午十月十三日、日蓮御判、武州池上」
(日蓮正宗大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』2巻p183~184)
(1970年刊『仏教哲学大辞典』に載っている『二箇相承』
□1488年(長享2年)6月10日 左京阿闍梨日教「類聚翰集私」
左京阿闍梨日教が著書「類聚翰集私」の中で「二箇相承」の全文を引用しているが、ここに載っている「二箇相承」の全文は、8年前に自分が「百五十箇条」の中で引用した「二箇相承」と内容が、あべこべになっている。
「身延相承 釈尊五十年の説教、白蓮日興に之を付属す身延山久遠寺の別当たるべし、背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり
弘安五年九月十三日、日蓮在御判、血脈次第日蓮日興、甲斐国波木井山中に於いて之を図す」
「池上相承 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立すべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法とは是なり、中んづく我門弟等此状を守るべきなり、
弘安五年壬午十月十三日、日蓮御判」
(日蓮正宗大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』2巻p314~315)
□1489年(延徳元年)11月4日 左京阿闍梨日教「六人立義破立抄私記」
左京阿闍梨日教が著書「六人立義破立抄私記」の中で「二箇相承」の全文を引用しているが、前年に「類聚翰集私」の中で全文引用した「二箇相承」の内容とは、部分的に食い違っている所がある。
「身延相承 釈尊五十余年之説教、白蓮日興に之れを付属す、身延山久遠寺の別当為る可し、背く在家出家共の輩は非法の衆為る可き者也
弘安五年九月十三日、日蓮在御判 血脈の次第日蓮日興 甲斐国波木井郷の山中に於て之れを図す」
「池上相承 日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に之れを付属す、本門弘通之大導師為る可き也、国主此の法を立て被れば富士山に本門寺の戒壇を建立為す可き也、時を待つ可き於耳、事の戒法と謂ふは是れ也、中ん付く我か門弟等此の状を守る可き也
弘安五年十月十三日 日蓮在御判」
(日蓮正宗大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』4巻p44)
□1516年(永正11年) 越後本成寺8代貫首・日現「五人所破抄斥」
日現が著書「五人所破抄斥」の中で、「二箇相承」を引用して、「二箇相承」を偽書であると批判している。越後本成寺とは円光日陣(1339~1419)が開祖である法華宗陣門流の総本山。日現とはその越後本成寺8世。円光日陣は、1396(応永3)年に「選要略記」を著して、日蓮宗一門で歴史上はじめて本迹勝劣を説いた人物として有名である。その後、慶林日隆、常不軽日真も日陣門流教学の影響を受けており、円光日陣とはいわゆる「勝劣派」の祖というべき人物である。
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