■論破5・大石寺の「戒壇の大本尊」は後世の偽作である4

 

□大石寺66世細井日達の妄説丸写しの「まぬけ猫」の妄説を斬る

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(洗脳法華講員・まぬけ猫(仮名)の妄説)

先々代である日達上人がかいだんの大御本尊について言及されていた事がありましたので簡単にですがお伝えします。これは日達上人全集第2?第一巻に書かれている事なので、先の民族誌云々より神保町辺りの古本屋に行けば容易く手に入れられると思います。

 まず楠云々に関しては間違いなく楠だと言う事。 そして漆が塗ってあるから室町時代に作られたと言われているが、かいだんの大御本尊の裏側を調べればカンナ等で綺麗に削った代物ではない事。 (『アンチ日蓮正宗VS日蓮正宗』掲示板、まぬけ猫(仮名)なる者の妄説)

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先代の日蓮正宗大石寺66世細井日達法主が、随所の説法の席で「戒壇の大本尊」なる板本尊が手斧(ちょうな)で板の表面を削ってあることを根拠にして、「戒壇の大本尊」なる板本尊が日蓮造立だと言いたいようだが、全くの誤謬であり、謬説である。細井日達の説法をよく読んでいただければおわかりいただけることであるが、ウソをついて人々を欺瞞しているのである。        

「また戒壇の御本尊様は楠の板である。楠の板で大部古くなりほこりが後ろの方にたまり今度御水洗いする事になり洗ったのである。実際に大御本尊は楠の板で其の時分ははカンナがなかった。鎌倉時代には手斧(ちょうな)である。だからあの御本尊は手斧けずりである。それを見ればすぐ分かる。それを知らないで漆を塗ってあるからあれは足利時代に出来たとか最近は徳川時代に出来たなどととんでもない事を言う。ところがあれは後ろを見るとみんな削ったあとがちゃんと残っている。それを見ても明らかに鎌倉時代である。 しかも手斧で、明治時代の人は知っている。丸いものではない。あの時代には鉞(まさかり)みたいな手斧で削った。其の板です。実際に見ればはっきり分かる。そういう事はこちらも誰も言わないけれども信者の人なら申しても差し支えないから申し上げます。表の方は本当は漆を塗ってあるから分からないけれども私は御虫払いでいつも、御拭きしますから分かります。今の板御本尊みたいに滑らかではない。ぎざぎざしている。それに漆を塗ったのである。そういう事を見てもはっきり鎌倉時代の板本尊である…」

(日達上人全集二輯五巻434,日興跡條々の事 昭和47912日 日正寺竜口法難会の説法)

66世日達13 

 

「戒壇の大御本尊様は……もう六百八十年も前に出来た板御本尊で御座いまして、これは当時鉋(かんな)というものが無かった、鎌倉時代で御座いますから、あの板御本尊様は明らかに鉋では造ってないのであります。みんな手斧(てちょうな)、手斧といっても戦国時代或いは室町時代できる丁鉋(ちょうな)でなくてもっと古い鉞(まさかり)みたいな手斧で削られて居るので御座います。それが歴然としてあの板御本尊様に残っておるので御座います。それを見ても鎌倉時代大聖人の時代に御造りになった御本尊様である事がはっきりしておるのでございます。…」

(日達上人全集二輯一巻368-371,大日蓮昭和482月号 、昭和471120日 本山御大会の説法)

「戒壇の御本尊様は楠の厚木です。表から見るとこういう板です。ところが此れは大変な板です。ただの板ではないのです。こういう板になっているのです。だから後ろから見ると丸木です。丸木を表だけ削ってあるわけです。大変なものです。重たい。上はただ三寸そこそこの板ですけれども、まわりは丸木です。真ん丸い木です。その丸い木を前を削って板にしたにすぎません。しかも此れを削ったのは手斧、鑓手斧(やりちょうな)とも鑓鉋(やりかんな)ともいいますね。それで削った。それは赤沢朝陽氏がちゃんと言明しております。だから鎌倉時代のものである。この手斧の削り方は徳川時代以後のものではない。足利時代から今日使用のああいう手斧が出来ていますか。鑓手斧は鎌倉時代の絵を見れば分かります。そういう御本尊ですから決して最近できたものではない。 以下略 」(日達上人全集二輯五巻446,日興跡條々の事 昭和52526日 寺族同心会の指南、大日蓮昭和527月号 、蓮華昭和526月号 )

 

この日蓮正宗大石寺66世細井日達の説法は、とんでもない欺瞞のトリックがある。

現在でも木工作業に使われている鉋(かんな)は、江戸時代に発明されたものであることには間違いはない。この鉋(かんな)の発明は、かなり劇的なものだった。それは、それまでできなかった、木の表面をまっ平らに削ることを可能にしたのである。つまりそれ以前の手斧(てちょうな)丁鉋(ちょうな)鑓手斧(やりちょうな)といった木工工具では、まっ平らに削ることができなかった。どんなに削っても1ミリ~2ミリ程度のデコボコ、乃至、凹凸がどうしてもできてしまうのである。

したがって木の表面を見て、完全なまっ平らなのか、多少のデコボコ、凹凸があるが、を見て取れば、江戸時代以降にできたものか、あるいはそれ以前にできたものかは、判別することができると言えよう。つまり明確に判別できるのは、造立年代が、江戸時代以降か、それ以前か、である。

しかし大石寺66世法主細井日達の説法のように、木の表面のデコボコ、凹凸だけで鎌倉時代のものだ、などとは断定できるものではない。 つまりこれから分かることは、大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊は鉋(かんな)が普及した江戸時代以前に造立された、ということだけである。鎌倉時代に造立されたという証拠になるわけがない。大石寺66世細井日達はなんとしても「戒壇の大本尊」は鎌倉時代にできたものだ、と言いたいがために、こうした詭弁を言っている。これは何も知らない信徒をだまそうとする欺瞞である。

これを裏付けるためにわかり易い一例を言おう。大石寺客殿の中央に鎮座する「譲座板本尊」をよく見ていただきたい。この譲座板本尊は二祖日興が書した「御座替わりの御本尊」を江戸時代初期の法主が板に模刻したものであるが、黒漆(うるし)が塗ってある表面にはかなりの凹凸が見える。これはもちろん鉋(かんな)ではなく、丁鉋(ちょうな)鑓手斧(やりちょうな)といった古来の木工工具で削ってあるからだ。 しかしこれは、鎌倉時代のものではなく、江戸時代初期に造立されたものだ。鉋(かんな)は、江戸時代に発明されたといっても、世間一般に広まるにはかなりの時間を要した。江戸時代初期といっても大石寺のある駿河地方には広まっていなかったのであろう。