■検証5・造仏読誦の要法寺貫首が書写した「二箇相承」を御書全集に載せている日蓮正宗
□造仏読誦の要法寺貫首が書写した「二箇相承」を御書全集に載せている日蓮正宗
日蓮正宗では、1556年(弘治2年)7月7日、富士門流八本山のひとつである京都要法寺13祖貫首・広蔵院日辰が重須本門寺(現在の日蓮宗大本山・北山本門寺)に行って、「二箇相承」の正筆といわれるものを「原寸通り、自ら臨写したもの」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書『富士日興上人詳伝』)が、現在、大石寺にある「二箇相承」であると説明している。
日蓮正宗では、これを日蓮正宗冨士学林発行の正式文献『富士年表』の中で、これを史実して記載しており、1556年(弘治2年)7月7日、日辰が書写した「二箇相承」を、日蓮正宗大石寺が発刊している「御書全集」に載せている。
□1556年(弘治2年)7月7日 京都要法寺13祖貫首・日辰の写本
要法寺13祖貫首・日辰が北山本門寺に行き霊宝を拝し、北山本門寺8世貫首・日耀をして臨写させたとされる写本が西山本門寺に現存している。
「身延相承(日蓮一期弘法付嘱書)
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年壬午九月 日 日 蓮 在 御 判
血脈の次第 日蓮日興」
「池上相承(身延山相承書)
釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。
弘安五年壬午十月十三日 武州池上
日 蓮 在 御 判」
(日蓮正宗大石寺発刊『平成新編』御書全集p1675)
この1556(弘治2)年の「古写本」と呼ばれる「二箇相承」の日辰書写の巻物を、大石寺では、毎年4月に大石寺で行われる霊宝虫払い大法会で、大石寺法主自らが「二箇相承」の古写本を手にとって参詣信徒の前で披露する。ここにも「二箇相承」が抱える矛盾がある。
(1970年刊『仏教哲学大辞典』に載っている『二箇相承』
□史実に相違する左京阿闍梨日教書写の「二箇相承」を御書全集に載せられない日蓮正宗
広蔵院日辰とは大石寺の僧侶ではなく、京都要法寺13祖貫首であり、日興門流の大曼荼羅本尊・方便品寿量品読誦の化儀に違背して、釈迦仏像造立・法華経一部読誦という、大石寺からすれば「大謗法」を行い、弘めた人物である。この日辰は1558年(永禄1年)、それまで途絶えていた要法寺と大石寺との通用を再開しようと当時の大石寺13世法主日院に書面を送っているが、大石寺法主日院は日辰の造仏読誦を理由に通用を拒否している。
日蓮正宗は、大石寺僧侶であった本是院日叶(左京阿闍梨日教)が「百五十箇条」に引用する写本ではなく、要法寺日辰の写本を「正」として、御書全集に載せている。
釈迦仏像造立・法華経一部読誦の所謂「大謗法」を行い、かつて大石寺が通用を拒否した他門流本山貫首が書写した「二箇相承」を日蓮正宗や創価学会が「正」としていること自体、大きな矛盾である。
日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は著書『富士日興上人詳伝』の中で「原寸通り、自ら臨写したもの」と言っているが、そういう言い方でもしなければ、要法寺日辰が書写した「二箇相承」を正当化できないであろう。
では日蓮正宗大石寺は、なぜそういう言い方までして、釈迦仏像造立・法華経一部読誦を行った京都要法寺13祖貫首・広蔵院日辰の「二箇相承」写本を正統化して、御書全集に載せなければならないのか。なぜ大石寺僧侶であった本是院日叶(左京阿闍梨日教)が「百五十箇条」に引用する「二箇相承」写本ではダメなのか。
それは、本是院日叶(左京阿闍梨日教)が書写した「二箇相承」には、明らかな間違いがあるからだ。
本是院日叶(左京阿闍梨日教)が書写した「二箇相承」の文中に「弘安五年九月十三日」「甲斐の国波木井郷、山中に於いて之を図す」とあるが、日蓮が常陸国(茨城県)で湯治治療を受けるために身延山を出発したのが9月8日。9月13日は、まさに湯治に向かう旅の途中にあり、日蓮は身延山の波木井郷にはいなかった。
間違った記述がある文書は、説得性に全く欠ける。というか、「二箇相承」が偽作文書である馬脚が現れてしまう。
よって1556年(弘治2年)7月7日 京都要法寺13祖貫首・日辰が北山本門寺に行き霊宝を拝し、北山本門寺8世貫首・日耀をして臨写させたとされる「二箇相承」の写本には、「弘安五年九月十三日」が「弘安五年九月日」なり、「甲斐国波木井山中に於て之を写す」が全く削除されている。
こういう理由で、日蓮正宗大石寺は、大石寺僧侶であった本是院日叶(左京阿闍梨日教)が「百五十箇条」に引用する「二箇相承」写本ではなく、釈迦仏像造立・法華経一部読誦の所謂「大謗法」を行い、かつて大石寺が通用を拒否した他門流本山貫首が書写した「二箇相承」を、御書全集に載せなくてはならなくなっているのだ。
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