■検証45・美濃周人氏の「日蓮は弘安五年十月十三日に身延山付嘱書を書けなかった」説は誤りである

 

□日蓮は身延山付嘱書を書けなくても代筆の仮説が成り立つので美濃周人説は誤りである

 

美濃周人氏は著書「虚構の大教団」の中で、「日蓮は弘安五年十月十三日に「身延山付嘱書」(池上相承書)を書けなかった。だから二箇相承は偽作である」という説を唱えている。美濃周人氏の説の概略は以下の通りである。

「日蓮の晩年の病状は弘安四年に入ってから、かなり悪化していた。日蓮は、日蓮自身が書いた遺文(御書)の中で次のように書いている。

「此の七、八年が間、年年に衰病をこり(起こり)候いつれども、…。既に、一期をわり(終わり)になるべし」(弘安四年五月二十六日『八幡宮造営事』・御書全集p1556

「老病たるの上、又不食気に候」(弘安四年十月二十二日『富木入道殿御返事』・御書全集p1571

「ただし八年が間やせやまい(痩せ病)と申しとしと申し…このやまい、をこりて秋すぎ冬にいたるまで、日日にをとろえ(衰え)、夜夜にまさり候いつるが」(弘安四年十二月八日『上野殿母御前御返事』・御書全集p1579

「所ろう(労)のあいだ(間)、はんぎょう(判形)をくわえず候事恐れ入り候」(弘安五年九月十九日『波木井殿御報』・御書全集)                       

日蓮は晩年、激しい下痢と食欲不振、さらに老齢からくる体力の衰えに苦しんでいた。とくに身延山久遠寺から常陸の国の湯治治療に旅立って池上邸に到着した翌日に書いた『波木井殿御報』には「所労(病気)が重いので、判形(サイン)も書けなくて申し訳ありません」とすらある。この『波木井殿御報』は弟子・日興が代筆したものである。そういう1282(弘安5)1013日のその朝に、池上相承書(身延山付嘱書)のような文書を、はたして日蓮が本当に書けたか。

「衰病」の日蓮は入滅するその日の朝、まさに入滅の直前に、池上相承書(身延山付嘱書)など書けるはずがない。しかも『波木井殿御報』によれば、日蓮は入滅の一ヶ月前の弘安五年九月には、その衰病のために御書も判形も自らの手で書けなかった。しかし、大石寺にある広蔵院日辰が書写した池上相承書(身延山付嘱書)の原文は、純漢文で日蓮の御判も書いてあるのである。どう考えても、これはおかしい。日蓮は池上相承書(身延山付嘱書)を書けなかったと考えるのが普通だ。身延山付嘱書(池上相承書)が、これほどまでにしっかりとした純漢文の正文書であること自体が、問題なのである。まさに日蓮入滅の直前とも言うべき状況の中で整美整足された身延山付嘱書(池上相承書)を書き上げて日興に授与するなどとは、到底考えられない。まさに日蓮入滅の場で書き上げられたのであったならば、文体がそれなりに乱れたものであっても、何ら不思議はない。ところが、この身延山付嘱書(池上相承書)は、日蓮一期弘法付嘱書(身延相承書)と、いわばペアになっていて、書式も文章もほぼ同じ体裁を整えている。常識で考えれば、「二箇相承」は、同一時期に同一人によって偽作されたと見るのが自然である。」

(美濃周人氏の著書『虚構の大教団』にある美濃周人説の概略)

虚構の大教団1 

 

以上が、美濃周人氏の「日蓮は弘安五年十月十三日に身延山付嘱書を書けなかった」説の概略である。一見して、もっともなように見える美濃周人説であるが、この説も誤りである。

なぜ美濃周人説は誤りなのか。仮に日蓮が臨終の日である弘安五年十月十三日に身延山付嘱書を書けなかったとしても、これだけでは「弟子の代筆」説が成立してしまうからである。

しかも日蓮は入滅の一ヶ月前の弘安五年九月には、『波木井殿御報』を弟子・日興が代筆しているので、なおさら、「弟子の代筆」の仮説が成立してしまう。よって日蓮は弘安五年十月十三日に身延山付嘱書を書けなかった」説を唱えるのならば、「二箇相承」が弟子の誰かによる代筆でもないことを証明しなくてはならない。

又、美濃周人氏は「『波木井殿御報』によれば、日蓮は入滅の一ヶ月前の弘安五年九月には、その衰病のために御書も判形も自らの手で書けなかった」ことを根拠にして、日蓮の判形がある身延山付嘱書(池上相承書)は書けなかったという説を立てるが、この説はいささか無理がある。

弘安五年九月十九日の時点で、日蓮が判形も自らの手で書けなかった状態であったとしても、それがどういう原因で判形が書けなかったのかについては不明である。

例えば日蓮が脳梗塞・脳内出血等の重病を患っていたとすれば、完全に日蓮が自らの手で判形すらも書けなかったということにはなるが、しかしそんな重病であったとすれば、判形を書くどころか、日蓮は言葉を発したり、弟子に遺言・遺命を託すことすらも不可能であったと考えられる。

しかし日蓮は弘安五年九月十九日から十月十三日に遷化するまでの間に、六老僧を選定したり、日像を枕元に呼んで帝都京都弘教を遺命している。さらにその他にも

「御遺言に云はく 仏は釈迦立像 墓所の傍(かたわ)らに立て置くべし云云。経は私集最要文           注法華経と名づく 同じく墓所の寺に籠()め置き、六人香花当番時之を被見すべし。自余の聖教

は沙汰の限りに非ず云云。」(『日蓮遷化記録』御書全集p1866)

と、釈迦立像や注法華経についての遺言も行っている。この遺言は「六人香花当番時之を被見すべし」とあることから、六老僧選定から遷化の間に行った遺言であったと考えられる。又、何れの古記録も「衰病」「痩せ病」「老病」「不食気」等とはあるが、脳梗塞・脳内出血等の重病を思わせるような記述は見あたらない。したがって弘安五年九月十九日の時点で、日蓮が判形も自らの手で書けなかった状態だったから、日蓮の判形がある身延山付嘱書(池上相承書)は書けなかったという美濃周人説には、かなりの無理がある。よってこの美濃周人説は誤った説であると考えられるのである。

二箇相承3 

(1970年刊『仏教哲学大辞典』に載っている『二箇相承』