■検証46・大石寺9世日有の代に歴史上初めて文献に登場する「二箇相承」

 

□大石寺法主の相承・相承書が公にせず秘密のままにしていたということは絶対にあり得ない

 

「二箇相承」が、いつ、誰によって、何のために偽作されたのか、という謎を解明していく上で、大きなポイントになるのが、「二箇相承」が、歴史上はじめて古文書に登場するのは、いつなのか、という点である。「二箇相承」が、歴史上はじめて文献・古文書に登場するのは、1480(文明12)に本是院日叶(左京阿闍梨日教)が著書「百五十箇条」で引用している「二箇相承」である。

1480(文明12)  本是院日叶(左京阿闍梨日教)「百五十箇条」

「身延相承書 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す、本門弘通の大導師為るべきなり、国主此の法を立てられば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ・事の戒法と謂ふは是なり、中ん就く我門弟等此状を守るべきなり

弘安五年壬午九月十三日、血脈の次第・日蓮・日興、甲斐国波木井山中に於て之を写す」

「池上相承 釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当為るべし、背く在家出家共の輩は非法の衆為るべきなり

弘安五年壬午十月十三日、日蓮御判、武州池上」

(日蓮正宗大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』2p183184)

 

ところがその左京阿闍梨日教は、長享2年(1488年)6月に書いた『類聚翰集私』、延徳元年(1489年)11月に書いた『六人立義破立抄私記』では、全く内容が異なる「二箇相承」を書写している。

1488(長享2)610日 左京阿闍梨日教「類聚翰集私」

「身延相承 釈尊五十年の説教、白蓮日興に之を付属す身延山久遠寺の別当たるべし、背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり

弘安五年九月十三日、日蓮在御判、血脈次第日蓮日興、甲斐国波木井山中に於いて之を図す」

「池上相承 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立すべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法とは是なり、中んづく我門弟等此状を守るべきなり、

    弘安五年壬午十月十三日、日蓮御判」

(日蓮正宗大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』2p314315)

 

これが「二箇相承」なる文書が、歴史上、初めて登場する文献である。「二箇相承」なる文書が、日蓮から日興への血脈相承を証明する文書だというなら、約200年も、他の文献に見えずに、誰一人知らないというのは、大いに矛盾した話である。

 

 

こう言うと日蓮正宗は「二箇相承は秘密文書の中の秘密文書だったのだから、ほかの弟子たちが知らなかったのは当然だ」という論法で、これに反論する。しかし日興が日蓮から血脈相承を受けて「本門弘通の大導師」や「身延山久遠寺の別当」に任命されたということを日蓮一門の僧侶や信者に秘密のままにしておくというのは、実におかしな話しである。血脈相承を受けて正式に後継者となったという事実は、積極的に公表していかなければ、教団の統制がとれない。つまり本当に「二箇相承」なる文書が存在していたならば、直ちにこの文書は日蓮門下の僧俗の前で公表され、日興が「本門弘通の大導師」「身延山久遠寺の別当」に登座する旨、公式に宣言・披露されていてしかるべきである。現在でも日蓮正宗では、前法主の隠退や死去などによる法主の交代を秘密にせず、日蓮正宗の内外に公表しているではないか。

 

□後継貫首・管長の選定プロセスも後継の儀式も相承書も公然と公開して行われるのが通例

 

こう言うと、日蓮正宗の信者は、まことに奇妙な事例を持ち出して反論してくる。

大石寺66世細井日達法主から大石寺67世阿部日顕法主への血脈相承は、昭和53(1978)415日に、日達法主と日顕法主の二人だけの場で、内密に行われた、などと言い出してくる。

しかしこんなものは、「二箇相承」が約200年も秘密にされていたなどと日蓮正宗が自称していることの証明にならない。現に大石寺66世細井日達法主が死去して大石寺67世阿部日顕法主が登座した後、血脈相承に疑義を唱えた僧侶が200人以上も出て、阿部日顕法主を「日蓮正宗管長・代表役員として認めない、通称「管長訴訟」が提起されたではないか。むしろ、大石寺の「血脈相承」と新法主の登座は、半ば公然と行われるのが、通例になっている。

65世日淳から66世日達、64世日昇から65世日淳、63世日満から64世日昇、61世日隆から63世日満、61世日隆から62世日恭、60世日開から61世日隆、59世日亨から60世日開…

全て衆目の前で公然と行われた。内密に66世日達法主から相承を受けたと称している大石寺67世日顕法主すらも、内密ではなく、公然と68世日如法主へ相承している。

これは大石寺の法主の相承のケースであるが、仏教宗派における本山貫首・管長の後継者選定が、その宗派の僧俗大衆の前から秘匿し、秘密のベールに包まれた中で後継者を選定し、全く不透明な形で後継貫首・管長がとつぜん出現する、などということは、あり得ない話しである。

そんなことをしていたら、その宗派・教団の統制がとれなくなり、それこそ19701990年代の日蓮正宗のように、散り散りバラバラになってしまうからである。よって後継貫首・管長の選定プロセスも後継の儀式も、公然と行われるのが通例であり、後継者選定に関する相承書があるのなら、当然、その時に公開される。したがって、「二箇相承」が成立してから約200年も、他の文献に見えずに、誰一人知らないというのは、絶対にあり得ない。その約200年もの間、秘密文書だったのではなく、「二箇相承」なる文書が、この地球上に存在していなかったということに他ならない。

二箇相承3 

(1970年刊『仏教哲学大辞典』に載っている『二箇相承』