■論破22・大石寺の「戒壇大本尊」は日蓮真造ではなく大石寺9世日有の偽作である12

 

□身延山中の日蓮の生活が厳寒・極貧の生活だったことを認めている「日蓮大聖人正伝」

 

日蓮正宗は、1981(昭和56)年の「日蓮七百遠忌」を記念して大石寺67世阿部日顕法主の監修のもと、日蓮の生涯を解説した本「日蓮大聖人正伝」を記念出版している。その「日蓮大聖人正伝」の中で、日蓮正宗は身延山中の日蓮の生活が厳寒・極貧の生活だったことを認めている。

「日蓮大聖人正伝」の該当箇所はp287からp293にかけてだが、ポイントの箇所をここに引用してみよう。

「身延の生活

その間における生活は、決して豊かではなかった。各地の信徒たちから送られてくる御供養の品々も、衣類、食料、調味料等と種々にわたり、かなりの量にのぼるようであるが、それでも弟子たちを養うにはとても十分ではなく、実に質素きわまる生活であった。因みに当時御供養のあった食料品をみると、米・麦・粟などの穀物のほか、芋・大根・ごぼう・豆・こんにゃく・たけのこ等の野菜類、他に餅や酒、そして油・塩・みそなどの調味料などが挙げられる。大聖人は、これら食料品に限らず、すべての御供養に対して、その多少にかかわらず、一つ一つ丁寧に返事を書かれ、それぞれの信心の深化と向上のために指南をされている。

弘安元年(1278)9月の『上野殿御返事』には

「富人なくして五穀乏し、商人なくして人集まることなし。七月なんどは、塩一升を銭百、塩五合を麦一斗にかへ候しが、今は全体、塩なし。何を以てか買うべき。味噌も絶えぬ」(御書p1272)

とあり、当時一般世間においてさえ深刻な食料不足であり、まして身延の厳しい山中に在っては、当然食料は乏しく、米や麦はもちろんのこと、野菜や塩、味噌などの生活必需品すら手に入れることは困難であった。また雪も深く、冬の長い身延では、衣服敷物に至るまで、こと欠くありさまであった。『単衣抄』に

「蘇武が如く雪を食として命を継ぎ、李陵が如く蓑をきて世をすごす…鹿の皮破ぬれば裸にして三四月に及べり」(御書904)と記され、『莚三枚御書』には

「此の身延の山の石は多けれども餅なし、苔多けれどもうちしく物候はず。木の皮を剥いでしき物とす」(御書1592)

とあるように、衣服にしても敷物にしても常に乏しく、身延の厳寒に難儀された。衣類等の御供養も袈裟、衣、小袖、帷子、布など多く記されてあるが、これとて大聖人お一人で使用されたわけではなく、当然弟子達にも分け与えられているであろうから、寒さをしのぐまでには至らなかった。

また、身延の山中では油などもなかなか手に入らず、明かりをともすことも意のままにはならず、暖を取るにしても、少しばかりの薪のたくわえでは、身延の長い冬を過ごすことは不可能なことであった。大聖人の身延での九ヶ年間は、常にこの飢えと寒さとの壮絶な戦いであった」

(日蓮正宗発刊『日蓮大聖人正伝』p290292)

日蓮大聖人正伝2 

 

□日蓮正宗発刊「日蓮大聖人正伝」の見解と矛盾する教義上の異説を唱える「慧妙」

 

「こうして出来上がった庵室に、大聖人は約八年間住まわれたのであるが、やはり簡素な造りのため、数年もたたずしていたみが目立ち始めた。そして庵室完成より四年後の建治三年の冬には、ついに「十二の柱、四方に頭をなげ、四方の壁は一所に倒れぬ」(御書1198)というありさまとなり、修復を余儀なくされたのである。しかし修復といっても、数人の御弟子方による急ごしらえでは、完成したとしても満足できるものではなかった。

「坊は半作にて風雪たまらず、敷物はなし」(兵衛志殿御返事・御書p1295)

「処は山の中、風はげしく庵室は籠の目の如し」(四条金吾許御文・御書p1523)

等の御文によっても、庵室の簡素さがしのばれよう。このような住まいで迎える厳寒の身延山の冬は、言語を絶するものであったと思われる」(日蓮正宗発刊『日蓮大聖人正伝』p288289)

 

このように『日蓮大聖人正伝』を読めば一目瞭然。日蓮正宗は『日蓮大聖人正伝』の中で、身延山中の日蓮の生活は、まさに小氷期の極寒・厳寒の厳しい冬の寒さの中にあり、食料や衣類も満足に手に入らない極貧生活で、日蓮は「飢えと寒さとの壮絶な戦い」をしていたと書いている。つまりこれは、日蓮正宗が身延山中の日蓮の生活が厳寒・極貧の生活だったことを認めているということに他ならない。

ところが、これでは、大石寺の「戒壇の大本尊」が日蓮の造立ではなく、後世の偽作であると照明されてしまうとして、あわてた日蓮正宗謀略機関紙『慧妙』は

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(日蓮正宗謀略機関紙『慧妙』の妄説)

実際に大聖人が『食うや食わずの極貧生活を送って』いたわけではない。その証拠に、弘安元年11月の『兵衛志殿御返事』には「人はなき時は四十人、ある時は六十人」(御書1295)と仰せられて、四十~六十人の弟子たちが身延へ来て修学していると述べられており…

 (平成25(2013)516日付け『慧妙』/「第17回ネットに蔓延る邪義を破す」)

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などと言って、身延山中の日蓮の生活は極貧生活ではなかったと言う。日蓮正宗の正式見解とは異なる教義上の異説まで唱えて、読む人を欺瞞しようとするのだから、呆れ果ててしまう。

しかし『日蓮大聖人正伝』の中にある見解のように、身延山中の日蓮の生活は極貧生活であれば、日蓮に楠木の調達、漆加工。金箔加工は不可能であり、「戒壇の大本尊」は後世の偽作であることが決定的になる。いずれにせよ、日蓮正宗の矛盾、日蓮正宗の論理破綻はここに明らかであり、日蓮正宗の弁解も妄説も、完全崩壊していると言えよう。

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