■検証52・大石寺9世日有が「二箇相承」を偽作した証拠5(日有独自の事の戒壇5)

 

□大石寺9世日有の代に歴史上はじめて「事の戒壇」が大石寺門流に登場

 

日蓮正宗に言わせると、日蓮正宗の教義の本義からして、「戒壇の大本尊」なる板本尊が祀られている場所=「事の戒壇」であるということなのだから、それはすなわち「戒壇の大本尊」なる板本尊と、「事の戒壇」という教義は、全く表裏一体であるということになる。日蓮正宗側の言い分では

「日寛上人は、当時の徳川幕府の圧政下において、まだまだ戒壇大御本尊が秘蔵中の秘蔵の扱いであったため、大御本尊に直接関わる根源の事の戒壇については、詳細を軽々に説くことを避け、略示に止められた。これを時至りて御先師日達上人が、体系的に、余すところなく明示あそばされたのである」(日蓮正宗理境坊妙観講講頭・大草一男氏の著書「続摧破異流義考」p7)

と、言い訳をしているが、1955(昭和30)年の奉安殿の建立以前、大石寺宝蔵で行われていた「戒壇の大本尊」御開扉の時には、初登山者がいた御開扉の度に「御宝蔵説法」をしていて、その中で法主は「戒壇の大本尊」なる板本尊が祀られている場所=「事の戒壇」の教義を説いていた。

それらの一例を挙げれば

「未だ時至らざる故に、直ちに事の戒壇これ無しといえども、すでに本門戒壇の御本尊まします上は、其の住処は即戒壇なり」

(日蓮正宗大石寺26世法主日寛の「寿量品談義」)

「広宣流布の時至れば一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。其の処は皆是れ義理の戒壇なり。然りと雖も仍是れ枝流にして、是れ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ根源なり」(日蓮正宗大石寺26世法主日寛の「法華取要抄文段」)

「未だ時至らざれば、直ちに事の戒壇はなけれども、此の戒壇の御本尊ましますことなれば、この処即ち本門戒壇の霊場にして、真の霊山、事の寂光土と云うものなり」

 (日蓮正宗大石寺37世法主日琫の「御宝蔵説法」)

「本門戒壇 在々処々本尊安置之処は理の戒也。富士山戒壇之御本尊御在所は事の戒也」

(日蓮正宗大石寺43世法主日相の「大弐阿闍梨御講聞書」)

「御遺状の如く、事の広宣流布の時、勅宣・御教書を賜り、本門戒壇建立の勝地は当国富士山なる事疑いなし。又其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊、今眼前に当山に在す事なれば、此の所即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土にして、若し此の霊場に一度も詣でん輩は…」

(日蓮正宗大石寺56世法主大石日応の「御宝蔵説法」)

「其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊、今眼前に当山に在す事なれば、此の所即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土なり」

 (日蓮正宗大石寺60世法主阿部日開の「御宝蔵説法」)

66世日達2 

(原進写真集『正法の日々』に載っている大石寺66世細井日達法主)

 

 

日蓮正宗大石寺66世法主細井日達の説法では

「大御本尊のおわします堂がそのまま戒壇堂であります。…戒壇の御本尊は、特別な戒壇堂ではなく、本堂にご安置申し上げるべきであります」(1回正本堂建設委員会)

「大御本尊は…大聖人の一身の当体でありますから、本門戒壇の大御本尊安置のところは、すなわち、事の戒壇であります」(197053日の創価学会本部総会法主特別講演)

昭和45(1970)、日蓮正宗大石寺66世細井日達法主は、早瀬日慈総監と阿部信雄教学部長(後の大石寺67世日顕)の前で、「これは相伝である」として以下の「御戒壇説法」を示したという。

「本門戒壇建立の勝地は当地富士山なること疑いなし。またその本堂に安置し奉る大御本尊は今、眼前にましますことなれば、この所すなわちこれ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土にして、若し此の霊場に詣でん輩は無始の罪障、速やかに消滅し…」

(平成16826日・大石寺大講堂・法主講義)

「御宝蔵説法」とは、奉安殿落慶以前において、大石寺法主が「戒壇の大本尊」の「御開扉」の時に説法したもので、これは今は大石寺の大きな法要(霊宝虫払い大法会・御大会・法主代替法要・日蓮遠忌大法会)での「御開扉」のときに法主が行っている「御戒壇説法」のことである。

このように大石寺の歴代法主が、大石寺9世日有の言う「事の戒壇」の意味が、「戒壇の大本尊」なる板本尊を祀る場所であるという意味のことを、明確に示しているのである。そうすると、「戒壇の大本尊」なる板本尊が日蓮や日興の代から存在していれば、「事の戒壇」の教義も日蓮や日興の代から存在していなければならないということになるが、そんなものは全く存在していない。

それでは、歴史上はじめて「事の戒壇」の教義が登場したのはいつなのか、となれば、それは保田妙本寺・小泉久遠寺11代住職・日要(14361514)が、かつて大石寺9世日有から聞いていた説法を、弟子たちに語っていた内容を日果という僧侶が筆録した文書である「新池抄聞書」の文

「日有云く、また云く、大石は父の寺、重須は母の寺、父の大石は本尊堂、重須は御影堂、大石は本果妙、重須は本因妙、彼は勅願寺、此は祈願寺、彼は所開、此は能開、彼は所生、此は能生、即本因、本果、本国土妙の三妙合論の事の戒壇なり」

新池抄聞書1

新池抄聞書3

(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「富士日興上人詳伝」p294295/「富士日興上人詳伝・下」p84)

ということになる。つまり、歴史上はじめて「事の戒壇」の教義が登場した大石寺9世日有の代に「戒壇の大本尊」なる板本尊が偽作された。大石寺の「事の戒壇」=「戒壇の大本尊」を祀る堂宇ということになる。そうすると、すなわち「二箇相承」の「身延相承書」

「国主此の法を立てられば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ」(本是院日叶「百五十箇条」・大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』2p183184)

の文を偽作したのが、大石寺9世日有以外にいないという結論が導き出されてくるのである。

二箇相承3 

(1970年刊『仏教哲学大辞典』に載っている『二箇相承』