■論破25・大石寺の「戒壇大本尊」は日蓮真造ではなく大石寺9世日有の偽作である15

 

□身延山久遠寺・日向造立板本尊が金箔加工の板本尊であった証拠は全く存在しない

 

「アンチ日蓮正宗」では、鎌倉時代の身延山中の日蓮の生活は、まさに極貧の生活で、弟子僧をも養えない状態だったほどだったこと。諸御書・遺文の中で、身延山中の極貧の凄惨な生活を訴える日蓮が、超高価な金(きん)を入手することは絶対に不可能だったこと。日蓮一門の僧侶・信徒が、身延山中の日蓮に砂金等もふくめて金(きん)を供養したという御書や記録は全く残っていないこと。鎌倉時代の日本はちょっとした産金国で、黄金を中国大陸に輸出していたが、日本国内の市中には金(きん)が出回るといったことは皆無だった。金(きん)を入手できたのは、ほんのごく一部の権力者。莫大な経済力を持つ大寺院。あとは莫大な財力を持った商人だけ。商人たちは、金(きん)を南宋へ輸出していた。

しかも日蓮は、立宗宣言から入滅までの30年間、鎌倉幕府をはじめ権力の側と厳しい対立関係にあった。鎌倉幕府・権力の側と親密な関係にあった禅宗や律宗の大寺院ならいざ知らず、鎌倉幕府に「立正安国論」を上程して、松葉が谷法難・伊豆流罪・小松原法難・龍口法難・佐渡流罪といった法難に遭遇した日蓮が、ほんのごく一部の権力者と莫大な経済力を持つ大寺院、莫大な財力を持った商人しか手にできない金を入手できるはずが絶対にない、として、黒漆・金箔加工が施されている大石寺の「戒壇の大本尊」は、日蓮の増量ではなく、後世の偽作である、と論破した。

ところがこれでは「戒壇の大本尊」が後世の偽作であることが証明されてしまうため、これでは困ると考えた日蓮正宗謀略機関紙『慧妙』は、大石寺の「戒壇の大本尊」とは全くの無関係である1300(正安2)12月に、身延山久遠寺第二祖日向が造立したとされる板本尊や、1374(文中3年・応安7)に中山法華経寺三代貫首・日祐が書いた「一期所修善根記録」を持ち出して、無理やり、「戒壇の大本尊」の金箔加工の証拠に「こじつけ」ようとして、こんなことを書いている。

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(日蓮正宗謀略機関紙『慧妙』の妄説)

大聖人滅後の身延山に板本尊が存在した、との事実からも、大御本尊造立が可能であったことはみてとれる。身延の古文書には『一、板本尊 本尊は祖師の御筆を写すか、下添え書きは第三祖向師(日向)の筆なり。下添え書きに云く、正安二年十二月 日 右、日蓮幽霊成仏得道乃至衆生平等利益の為に敬って之を造立す』(『身延山久遠寺諸堂建立記』日蓮宗宗学全書22p56)

とあり、大聖人御筆の御本尊を模写した板本尊が、民部日向によって造立されていたことが判る。

さらに中山(法華経寺)3世・日祐の『一期所修善根記録』にも

『身延山久遠寺同御影堂、大聖人御塔頭、塔頭板本尊 金箔 造営修造結縁』(日蓮宗宗学全書第一巻p446)

 

 

と、身延上代の御影堂に板本尊が安置してあったことが記録されている。民部日向造立の板本尊と、中山(法華経寺)3世日祐の記した板本尊が同一のものかは定かではないが、いずれにしても、大聖人入滅後、程なくして身延久遠寺において、板本尊が造立されており、さらに『金箔』と記されているように、それが金箔で加工された板本尊であったことがわかる。このような史実からすれば、大聖人御在世においても、板御本尊の造立と、漆・金箔の装飾加工が成し得たであろうことは、想像に難くない。ことほどさそうに、大御本尊に対し奉る疑難は、邪推で固まっているのである。

(平成25(2013)616日付け『慧妙』/「第18回ネットに蔓延る邪義を破す」)

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この日蓮正宗謀略機関紙『慧妙』の文には「ごまかし」と欺瞞がいくつもある。

まず第一に1300(正安2)12月に、身延山久遠寺第二祖日向が造立したとされる板本尊や古の昔から日蓮像を祀っていたとされる身延山久遠寺御影堂にあった板本尊を持ち出して、さも大石寺の「戒壇の大本尊」が日蓮の造立であることが証明されたかのような言い方をするが、これは全くの欺瞞である。日蓮正宗の信者は、日蓮宗の本尊は釈迦如来像だけだと勘違いしており、日蓮正宗の信者が、日蓮宗の本尊や化儀に暗いことにつけこんだ、甚だしい欺瞞的な論である。

日蓮宗寺院の中心本尊は、あくまでも一塔両尊四士と日蓮像を中心にした大曼荼羅の勧請を立体像化した立体本尊。ないしは両尊四士像であり、大曼荼羅そのものを寺院の中心本尊とはしていないが、「大曼荼羅御本尊」と言って、曼荼羅も「御本尊」と言うのである。日蓮宗で、大曼荼羅のことを大曼荼羅本尊と言うのは、あくまでも日蓮宗僧侶・信者の日々の信行の本尊として崇めている、ということから「大曼荼羅御本尊」と言うのであって、寺院の中心本尊という意味なのではない。大曼荼羅も日蓮宗では「本尊」と言うが、それは日蓮宗僧侶・信者の日々の信行の本尊という意味である。

第二に、身延山久遠寺御影堂に板本尊があったことを、まるで鬼の首でも取ったかのように言っているが、日蓮像を祀る日蓮宗寺院堂宇で、大曼荼羅ないしは板曼荼羅本尊を祀る化儀は、昔から今も行われている。現在、身延山久遠寺の日蓮像を祀る祖師堂では、日蓮像の後方に大曼荼羅が祀られており、又、日蓮七回忌の折に造立された日蓮像を祀る池上本門寺大堂では、日蓮像の後方に板曼荼羅本尊を祀る。これは日蓮宗寺院の化儀として昔から行われていることであって、何も「戒壇の大本尊」日蓮造立の証明でも何でもない。

第三に、板本尊といっても、全ての板本尊に掘り下げ彫刻・漆加工・金箔加工が施工されているわけではないこと。板の上に墨筆の曼荼羅が書かれているだけの板本尊もある。

第四に、1300(正安2)12月に、身延山久遠寺第二祖日向が造立したとされる板本尊に、金箔加工が施されていたとの記録は全くない。「慧妙」も認めているとおり、身延山久遠寺第二祖日向が造立したとされる板本尊と1374(文中3年・応安7)に中山法華経寺三代貫首・日祐が書いた「一期所修善根記録」に出てくる金箔加工の板本尊が同一であるという証拠は全くない。

身延山久遠寺2 

(日蓮像を祀る身延山久遠寺・祖師堂)