■論破89・大石寺の「戒壇大本尊」は日蓮真造ではなく大石寺9世日有の偽作である3
□身延山中のあまりの極貧生活のために弟子の僧を里に帰さざるを得なくなっていた日蓮
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(「アンチ日蓮正宗」に降伏宣言した龍神ひろしの妄言)
『アンチ日蓮正宗hideが言う。金箔を買う金が無かったと、小氷河期を破す』
●人はなき時は四十人、ある時は六十人、いかにせ(塞)き候へども、これにある人々のあに(兄)とて出来し、舎弟(しゃてい)とてさしいで、しきゐ(敷居)候ひぬれば(弘安元年11月29日御作『兵衛志殿御返事』御書1295、全集1099頁)
●抑(そもそも)貴辺の去ぬる三月の御仏事に鵞目(がもく)其の数有りしかば、今年一百余人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ(弘安2年8月11日御作『曽谷殿御返事』御書1386、全集1065頁)
御書から見ると、多くの信者が当時の身延に参詣されていた事が分かる。これらをみれば、分かるが、金箔が買えないとか、漆を買えないとか、楠を手に入れる事は、不可能とする事は、出来ないのである。ちょとした常識があれば、言う事無い邪義である。
(2013年01月26日の龍神ひろし・楽天『自慰』ブログの日記)
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日蓮遺文(御書)を読めば、身延山中で暮らす日蓮の生活ぶりは、まさに極貧の生活だったことが明らか。しかし龍神ひろしは、必死になって、日蓮の文意を歪曲して、ごまかそうとしている。
「この月の十一日たつの時より十四日まで大雪ふりて候しに両三日へだててすこし雨ふりて、雪かたくなる事金剛のごとしいまにきゆる事なし、ひるもよるもさむくつめたく候事法にすぎて候、酒はこをりて石のごとく、あぶらは金ににたり、なべかまは小し水あればこおりてわれかんいよいよかさなり候へば、きものうすく食ともしくしてさしいづるものもなし。坊ははんさくにてかぜゆきたまらずしきものはなし、木はさしいづるものもなければ火もたかず、ふるきあかづきなんどして候こそで一なんどきたるものは其身のいろ紅蓮大紅蓮のごとし、こへははは大ばば地獄にことならず、手足かんじてきれさけ人死ぬことかぎりなし、俗のひげをみればやうらくをかけたり、僧のはなをみればすずをつらぬきかけて候、かかるふしぎ候はず候に去年の十二月の卅日よりはらのけの候しが春夏やむことなし、あきすぎて十月のころ大事になりて候しがすこして平愈つかまつりて候へどもややもすればをこり候に、兄弟二人のふたつの小袖わた四十両をきて候が、なつのかたびらのやうにかろく候ぞましてわたうすくただぬのものばかりのものをもひやらせ給へ、此の二のこそでなくば今年はこごへしに候なん。其上兄弟と申し右近の尉の事と申し食もあいついて候、人はなき時は四十人ある時は六十人、いかにせき候へどもこれにある人人のあにとて出来し舎弟とてさしいでしきゐ候ぬれば、かかはやさにいかにとも申しへず心にはしずかに、あじちむすびて小法師と我が身計り御経よみまいらせんとこそ存じて候に、かかるわづらはしき事候はず、又としあけ候わばいづくへもにげんと存じ候ぞ、かかるわづらわしき事候はず又又申すべく候。」(御書全集p1294~1295)
まさに小氷期の最中、酒も凍り凍死者が出るほどの厳寒の身延山、日蓮が「紅蓮地獄、大紅蓮地獄のようだ」とまで書いているほど極寒の身延山に、池上兄弟が綿や衣、食物を供養したことに対して、謝礼を述べる日蓮。そんな中、「人はなき時は四十人ある時は六十人」の人が訪ねてきて、「私はだれそれの兄です。弟です」と、何かの縁をたよりに日蓮の元に訪ねて来ていた。
しかし日蓮は「心にはしずかに、あじちむすびて小法師と我が身計り御経よみまいらせんとこそ存じて候に、かかるわづらはしき事候はず」---心は静かに身延山の庵室で、小僧と二人で読経する日々を送りたいと思っていたのに、こんなにわずらわしい事はない----こう日蓮は言っている。
「人はなき時は四十人ある時は六十人」の人が訪ねて来るのを「かかるわづらはしき事候はず」と言い、心は静かに身延山の庵室で、小僧と二人で読経する日々を送りたいと思っていたとまで言っている日蓮。なぜこんなことを言っているのか。
それは、身延山中の日蓮の生活が、あまりにもひどい極貧生活であったため、弟子僧を里に帰さなければならないほどだったからである。日蓮53才の文永11年5月17日に執筆した「富木殿御書」で、日蓮はこんなことを書いている。
「飢渇申すばかりなし。米一合も売らず。餓死しぬべし。此の御房たちもみなかへして、ただ一人候べし」(御書全集p730)--- 飢餓状態はひどいものだ。米一合も売ってもらえない。餓死するかもしれない。ここにいる僧たちも養うことができないので、皆、里へ帰した」
こう言うと、「それは文永11年5月17日のことだから、身延山に入る前のことだ」と言うであろう。
日蓮54才の時の建治元年8月4日に執筆した「乙御前御消息」で日蓮はこう書いている。
「日蓮を不便(ふびん)と申しぬる弟子どもをも、たすけがたからん事こそ、なげかしくは覚え候へ」 (御書全集p898~899)。日蓮55才の時の建治2年閏3月24日に執筆した「南条殿御返事」では
「各々も不便(ふびん)とは思へども、助けがたくやあらんずらん」(御書全集p974)----「それぞれの僧にはかわいそうだとは思うが、(貧困の極致にいる今は)助けることもできない」---
日蓮は弟子のことを「不便」(かわいそうだ)とか、あるいは「助けがたく」とか「たすけがたからん」とか、「助けることもできない」と言っている。なぜ日蓮は、弟子僧をかわいそうだとか、「助けることもできない」と言っているのか。それは、身延山中の日蓮の生活があまりにも極貧生活であるために、せっかく仏法に目覚めて発心し出家して日蓮の弟子になりながら、日蓮は弟子僧を養うことが出来ずに、里に帰さざるを得なかった。だから、弟子の僧が「不便」(かわいそうだ)と言い、「人はなき時は四十人ある時は六十人」の人が訪ねてきても、それらの人を満足にもてなし、養うことが出来ない。だから「心は静かに身延山の庵室で、小僧と二人で読経する日々を送りたい」とか、四十~六十人の人が訪ねて来ても、「かかるわづらはしき事候はず」と言っているのである。
「兵衛志殿御返事」の中で日蓮が「人はなき時は四十人ある時は六十人」と書いているからといって、日蓮がこれだけの大人数の弟子僧を養っていたわけではないのである。
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