■論破91・大石寺の「戒壇大本尊」は日蓮真造ではなく大石寺9世日有の偽作である5

 

□洗脳法華講員の反論は身延山で極貧生活をしていた日蓮が金を入手した証明になっていない

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(「アンチ日蓮正宗」に降伏宣言した龍神ひろしの妄言)

『大日本古文書』二十四 天平六年(734) 造仏所作物帳断簡 練金一両から作られる枚数600

『大日本古文書』二十五 天平宝字五年(761) 造寺雑物請用帳 練金一両から作られる枚数は415

『大日本古文書』十二  天平勝宝四年(752) 書写所雑物請納帳 方二寸三分 と 方二寸

『二中歴』第三 平安、鎌倉時代   木像用金箔 金一両で千枚

『宇治拾遺物語』西暦1212年頃 京都の箔打が大和国金峰山の金18両を持ち帰って、箔7,8千枚を打った 現在 金一両(10)36分角約1,730枚奈良時代、鎌倉時代の    金箔のdimension 『二中歴』とは、平安時代の後期、あるいは鎌倉時代の初期に作成された百科全書なのですが、もともとは『掌中歴』『懐中歴』という二冊の本だったのを合体させたのです。現代でいえば、ハンド・ブックとかポケット・ディクショナリーと称する辞典と考えたらよいのでしょう。昔は時代による変化がほとんどなかったから、鎌倉時代初期に使われた辞典が江戸時代でも使われ続けたのです。  上の写真は『二中歴』第三のなかの「木像用金薄」という項目の部分です。加賀藩前田家尊経閣に伝わっている伝本です。 木製仏像に使う金箔といえば、「面七胸五衣三座一」と覚えよ、とこのポケット・ディクショナリーは教え込むのです。平安時代以降、これが常識だったのでしょう。現代の日本では失われてしまった言葉です。簡単に申し上げると、最近は金7匁で1,000枚の金箔が通り相場ですから、昔の金箔はとても分厚い金箔だったことになります。そもそも箔のサイズが違います。http://www.lcv.ne.jp/~kohnoshg/site54/ariga5.htm

金は、今も昔も貴重価値である。現代においては、電子部品に欠かせない金属になっており、都市埋蔵金とも言われ、パソコンや携帯等からの金が取れるのである。懲りずに、hideなる歴史を知らずに、徳川家光公は、日光山輪王寺なのに家康と同じ、東照宮だと言っているようや歴史認識が全く無い。習ひそこないの学者が、騒いでおる。小生から言わせて貰えば、悪あがきにしか見えない内容である。私は、高校が工業でしかも、電子関連を学んだので、ネットにある大聖人は、貧乏で大御本尊を建立する金は無かっただの、金箔は購入不可だのを見ると、ド素人の論であると感じる。彼等は、大御本尊建立に何百万だのと思っているだろうが、きちんと当時の金箔を調べれば、以外にコストを抑えて建立されていた事が分かるものである。

一両の金。鎌倉時代の一両が現代価値でわからないが、江戸時代の一両小判が、3万円との事であるからして、金箔だけで何百万はかかって無いのである。金は、少量でも金箔は作れるのである。だから、現代電子部品に使われやすいのである。

(20130302日の龍神ひろし・楽天『自慰』ブログの日記)

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「アンチ日蓮正宗」の論破に窮した龍神ひろしは、必死になってインターネットを検索して、金や金箔に関する資料を探し出したのであろうが、問題のポイントを何一つ理解していない龍神ひろしの論は、ことごとく的外れな論に終始し、見事、反論に失敗している。では何がどう的外れになっているのか。龍神ひろしは、大石寺の「戒壇の大本尊」の金箔加工が、鎌倉時代の日蓮の造立であるということを言いたいがために、奈良時代や鎌倉時代の古文書・文献に載っている金や金箔の資料を引っ張り出してきて、これが「戒壇の大本尊」の金箔加工が、鎌倉時代の日蓮の造立である証明だと言いたいようなのだが、これが的外れであり、重大な誤謬なのである。

「アンチ日蓮正宗」は、鎌倉時代に金箔加工がなかったなどとは一言も言っていない。奈良時代、平安時代、鎌倉時代においても、金や金箔・金箔加工そのものは存在した。「アンチ日蓮正宗」が言っているのは、奈良時代、平安時代、鎌倉時代において「金」が入手できたのは、天皇・皇族・公家・武家政治の権力者・比叡山延暦寺や高野山、東大寺、興福寺などの官寺、大寺院、宋との貿易を手がける商人たちのみで、鎌倉時代の日蓮は、金を絶対に入手できなかった。だから、金箔加工が為されている大石寺の「戒壇の大本尊」は、日蓮の造立ではなく、後世の偽作だと言っているのである。

日本銀行金融研究所貨幣博物館が所蔵している日本銀行調査局編「図録・日本の貨幣1」によると、日本では平安時代から室町時代末期まで、金銀比価はおおむね一対五前後で推移したが、中国の場合は、次のように、常に日本に対して、金高傾向で推移したという。 銀と銅の対価は、日中両国ともほぼ同じ程度に推移したため、日本では、銅銭価値が中国に比べて相対的に高く、銭安金高の宋(中国)に日本の金が流出し、中国の銅銭が日本に流入する一因となった。

鎌倉時代には日本船も盛んに宋(中国)に渡航し、九州を拠点に貿易を行った。

貿易船ははじめは幕府や有力寺社の委託船であったが、後には鎌倉や京都の商人の船も参加し、ここに貿易商人の発生をみた。日本からの有力な輸出品であった金を産出する陸奥の国の産金地帯は、鎌倉幕府は直轄領としており、特に執権・北条氏は得宗家の得宗領としていた。鎌倉時代において、金の権益は、鎌倉幕府が実質的に独占していたのである。その鎌倉幕府と終始きびしい対立関係にあった日蓮一門が「金」を入手するなどとは、絶対に不可能であった。

だから大石寺の「戒壇の大本尊」の金箔加工が、鎌倉時代の日蓮の造立であると言いたいのならば、身延山中の日蓮が金を入手していたことを証明しなくてはならないが、龍神ひろしはこれを全く行っていない。そもそも日蓮が金を入手していたならば、身延山中で極貧生活をしているわけがない。しかも龍神ひろしが「私は、高校が工業でしかも、電子関連を学んだので、ネットにある大聖人は、貧乏で大御本尊を建立する金は無かっただの、金箔は購入不可だのを見ると、ド素人の論である」などと言うに至っては、全く笑止千万である。

戒壇大本尊1大正4年由井本1
 

(大石寺の『戒壇の大本尊』なる板本尊)