■検証35湯之奥金山の「金」(きん)を手に入れていた大石寺9世日有1

 

甲州・湯之奥金山の金の経済力がなければ不可能だった大石寺9世日有の地方巡教1

 

「日有上人は奥州から京都、越後などの日本各地・諸国へ長期間にわたり布教を進めて大石寺を繁栄させた『中興の祖』である」などという話しを日蓮正宗の僧侶や信者はよく口にする。

大石寺9世日有は、京都天奏の旅をはじめとして、奥州から越後などの日本各地・諸国へ長期間にわたり巡教したというが、これだけ長期の間に全国各地を巡教するだけで、旅費や宿泊費だけでも莫大な金額になるだろう。大石寺9世日有が相当な経済力を有していなければ、このような全国各地を巡教するなどということは、絶対に不可能なことである。それでは、大石寺9日有は、京都天奏の旅・日本各地・諸国への巡教の旅の費用は、具体的にどれくらいかかったのか、ということを検証していく必要がある。その研究史料として、興味深い歴史史料がいくつかある。

 

□中世・戦国時代の旅の消費記録「永禄六年北国下り遣足帳」

 

千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館が発行する「歴博」124(2004530日発行)の中に「旅の消費--『永禄六年北国下り遣足帳』の世界」と題する研究論文が載っている。

国立歴史民俗博物館は、どういう所なのか。まずフリー百科事典・Wikipediaから引用してみたい。

国立歴史民俗博物館とは、千葉県佐倉市にある、大学共同利用機関法人人間文化研究機構が運営する博物館。日本の考古学、歴史、民俗について総合的に研究・展示する博物館である。通称、歴博(れきはく)。佐倉城趾の一角にある。

日本には明治時代から東京、京都、奈良の3か所に美術系の博物館である帝室博物館(のちの国立博物館)が存在したが、これらとは別に歴史系の国立博物館を設置すべきだとの意見は早くからあり、歴史学者の黒板勝美はすでに昭和戦前に国立歴史博物館の必要性を訴えていた。しかし、国立の歴史系博物館の設置構想が具体化するのは第二次世界大戦後のこと。

国の機関としての国立歴史民俗博物館は1981年に発足し、井上光貞が初代館長となった。ただし、博物館としての一般公開が始まるのは2年後の19833月のことである。

(フリー百科事典・Wikipedia「国立歴史民俗博物館」より)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%B0%91%E4%BF%97%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8

つまり今の美術系の国立博物館とは別に、歴史学者が唱えていた歴史系の国立博物館が、今の国立歴史民俗博物館だというわけである。私も何度か千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館を訪問しており、「歴博」124(2004530日発行)という資料も、国立歴史民俗博物館のミュージアムショップで購入した資料である。

国立歴史民俗博物館2


国立歴史民俗博物館1
 

(国立歴史民俗博物館)

 

 

「永禄六年北国下り遣足帳」とは、1563(永禄6)9月、京都の醍醐寺の僧侶が北国に向かって旅立った時の、京都から東北までの長大な旅の消費の記録である。これは国立歴史博物館が所蔵しており、戦国時代の消費支出を記録した貴重な史料である。

醍醐寺とは、京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐派総本山で、伏見区東方に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内をもつ寺院である。豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られる。この「遣足帳」のような、いわば支出メモは、当時は「小日記」と呼ばれていたようで、大徳寺や東寺にも同じような旅の会計簿が残されているという。

こうした記録は、今で言うとレシートを貯めておくようなもので、本来なら「出張」が終わって会計報告を提出してしまえば、保管の必要はないのだが、幸運にも破棄されずに、歴史史料として伝わっているのである。

ところでこの京都から東北までの長大な旅の「遣足帳」の中に、北関東の部分に空白期がある。この空白期の間は、旅の僧侶は何らかの用務のために末寺的な寺院をめぐっていたのであり、したがって、宿泊や食事はその寺院で済ませることができ、支出を行う必要がなかった。

その結果、支出帳簿である「遣足帳」の中に、支出の記載がないのである。北関東以外の途中の経路でも、時々支出のない日があり、これらも宿泊できそうな真言宗寺院が付近にあることが多く、同様に寺院に宿泊して食事も済ませていたと考えられる。

中世の旅の記録の中で、基本的にお金を払って旅をする人の記録を見ると、旅籠や昼食をとる茶屋といった所は、実は、このころ、どこにでもあったのである。

街道沿いの宿泊施設は、ところどころにあっても、何の役にも立たない。毎日、次の宿をあてにできるから旅ができるのであり、こういった旅・旅人の需要が広範にあるから宿屋が成立するのである。1419(応永26)年の東寺~兵庫間の旅の記録を見ても、宿泊は毎日、旅籠で行っている。

「旅の消費--『永禄六年北国下り遣足帳』の世界」と題する研究論文の著者で国立歴史民俗博物館研究員・小島道裕氏は、15世紀には、すでに日本各地において、宿泊システムが成立していたと述べている。

そして、一般人の旅が盛んになるのは江戸時代に入って幕府が街道を整備してからだと考えられがちだが、むしろ中世の段階において、自然発生的に成立していた旅の宿泊施設やシステムを前提として、近世の交通体系が造られていったと考えるべきとも、述べている。

歴博124
 

(「歴博」124号・2004530日発行)

旅の消費1
 

(永禄六年北国下り遣足帳)