■検証54京都・奈良仏教界をモデルに「戒壇の大本尊」を偽作した大石寺9世日有8

 

東大寺・延暦寺に優越する「事の戒壇」を東大寺戒壇院をモデルにした大石寺9世日有

 

大石寺9世日有が伝教大師最澄自作の薬師如来立像を祀る比叡山延暦寺根本中堂をモデルに『事の戒壇』なるものを発明したのであるが、日有が『事の戒壇』のモデルにしたのは、比叡山延暦寺根本中堂だけではない。大石寺9世日有独自の戒壇義である「事の戒壇」によく似ているものは、他にもある。そのひとつが、何と日本三大戒壇のひとつである東大寺の戒壇院である。

東大寺というのは、奈良市にある華厳宗大本山の寺。奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏を本尊とし、世界最大級の木造建築である大仏殿が有名な、あの東大寺である。

日蓮正宗大石寺9世法主日有が、京都天奏で上洛した時代、当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」で授戒されない僧侶は、僧侶としてすら認められなかった。当時の日本では、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本には、比叡山延暦寺の他、奈良・東大寺、唐招提寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺等の官寺にしか存在しなかった。

鑑真は754年、東大寺に戒壇を築き、同年4月に聖武天皇をはじめ430人に授戒を行なった。これが最初の戒壇である。その後、東大寺に戒壇院を建立し、筑紫の大宰府の観世音寺、下野国(現在の栃木県)の薬師寺に戒壇を築いた。これ以降、僧になるためには、いずれかの戒壇で授戒して戒牒を受けることが必須となり、国(国分寺)が僧を管理することになった。

大和国の東大寺、法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられたが、822年、伝教大師最澄の死後、比叡山延暦寺に戒壇の勅許が下され、大乗戒壇が建立された。

当時は、中国の仏教界は比叡山延暦寺の大乗戒壇を、戒壇としては認めておらず、ここで受戒した僧は、中国では僧侶として認められなかった。また、官立寺院(官寺)ではない比叡山延暦寺に戒壇設置を認められたことに東大寺をはじめとする南都(奈良)の寺院の反発を招いた。東大寺は、大石寺9世日有が生きていた時代でも、日本三大戒壇のひとつであり、総国分寺であった。

東大寺は、京都から南に下ること約40キロの所にある奈良、つまり旧平城京があった所から東へ約4キロぐらいの所にある。私が、大石寺9世日有独自の「事の戒壇」と似ていると言っているのは、東大寺大仏殿のことではなく、東大寺の戒壇院のことで、出家者が受戒(正規の僧となるための戒律を授けられる)するための施設として、天平勝宝7歳(755年)に鑑真和上を招いて創建された。現在の建物は享保18年(1733年)の再建である。

 

 

□東大寺では大仏殿(金堂・本堂)と戒壇院は別個だが大石寺では大石寺本堂=事の戒壇

 

「大石寺9世日有は東大寺戒壇院をモデルにして『事の戒壇』を発明した」と言うと、東大寺に行ったことがない日蓮正宗・創価学会・顕正会・正信会の信者たちは、東大寺といえば大仏殿のことだと思い込み、大仏殿と戒壇院を混同してしまって、「大石寺9世日有は東大寺戒壇院をモデルにして『事の戒壇』を発明した」を「「大石寺9世日有は東大寺大仏殿をモデルにして『事の戒壇』を発明した」という意味に錯覚する者がかなりたくさんいる。東大寺で本堂に該当する堂宇は、「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏を本尊として祀る大仏殿であり、鑑真和上が築壇した東大寺戒壇院とは、大仏殿とは別個である。現在の東大寺大仏殿も戒壇院も、江戸時代に再建された堂宇だが、東大寺大仏殿も戒壇院も別個の堂宇として再建されている。

大石寺9世日有は、「事の戒壇」なるものを発明するにあたり、根本中堂と大乗戒壇が別に建つ比叡山延暦寺の場合は根本中堂をモデルにしたのであるが、東大寺の場合は、大仏殿ではなく戒壇堂をモデルにした。つまり大石寺9世日有が発明した「事の戒壇」は、比叡山延暦寺の根本中堂と東大寺戒壇院をモデルにしたものだと言うことが出来る。大石寺9世日有は、自らが偽作した偽書「百六箇抄」の中で

「下種の弘通戒壇実勝の本迹・三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり…五人並に已外の諸僧等、日本乃至一閻浮提の外万国に之を流布せしむと雖も、日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり。」(大石寺59世堀日亨編纂「富士宗学要集」1p18p21)

と言い、「戒壇の大本尊」を祀る堂宇が本堂であり、下種の戒壇すなわち「事の戒壇」であると言っている。比叡山延暦寺の総本堂に該当する堂宇が根本中堂で、東大寺の本堂(金堂)が大仏殿。比叡山延暦寺でも東大寺でも、本堂(根本中堂・金堂・大仏殿)と戒壇院は別個であるが、大石寺9世日有は、「戒壇の大本尊」を祀る堂宇が本堂であり、「事の戒壇」であるとした。つまり大石寺9世日有は、比叡山延暦寺の根本中堂と東大寺戒壇院をモデルにして「事の戒壇」を発明し、大石寺本堂=事の戒壇としたわけである。

東大寺の戒壇院の中に入ってみると、堂内中央には、中央に法華経見宝塔品の所説に基づく多宝塔に見立てた厨子の中に、釈迦牟尼仏像と多宝仏像が祀られている。そして多宝塔の四隅を囲むように広目天、増長天、持国天、多聞天の像が祀られている。

釈迦牟尼と多宝仏が座る宝塔を広目天、増長天、持国天、多聞天が囲む形は、日蓮が図顕した大漫荼羅のオリジナルみたいなものだ。釈迦牟尼仏と多宝仏が座る宝塔を広目天、増長天、持国天、多聞天が囲むものを「大漫荼羅」と考えれば、それを祀る堂宇は、それはそのまま日有が発明した「事の戒壇」そのものになってしまうではないか。実際に東大寺戒壇院に行って、中に入ったとき、これも大石寺9世日有が発明した「事の戒壇」のモデルだな、ということを強く実感した。

東大寺2戒壇


東大寺9戒壇
 

(東大寺戒壇院)

9世日有4(諸記録)

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)