■検証98・二箇相承「重須本」は大石寺9世日有の二箇相承「大石寺本」の流転本である1

 

□富士門流各本山の覇権紛争の中で謀作された「戒壇の大本尊」「二箇相承」「百六箇抄」

 

「二箇相承」の「正筆」といわれるものを、1581(天正9)年まで格蔵してきたとされる北山本門寺が、現在ではこの「二箇相承」を全面否定している。しかし日蓮正宗の信者等々が近年騒ぎ立てている北山本門寺格蔵の「二箇相承」とは、「正本」ではなく、大石寺9世日有が偽作した偽書・二箇相承・大石寺本の流転本であり、改訂版のようなもの。我々はこれを二箇相承「重須本」とよんでいる。二箇相承「重須本」は、二箇相承「大石寺本」の後から出現したものであり、「二箇相承」そのもののルーツではない。二箇相承の謎を説き明かすカギは、二箇相承「重須本」ではなく、二箇相承「大石寺本」である。日蓮正宗の信者は、「二箇相承」偽作説に反論しようとして、二箇相承「重須本」ばかりを取り上げているが、二箇相承・大石寺本の流転本・改訂版の二箇相承「重須本」だけを取り上げても、ことごとく的外れなものに終始しており、その姿はまことに滑稽である。

この「二箇相承」や相伝書といわれている文書や「戒壇の大本尊」なる名前の板本尊等が偽作されてきた背景を、よりわかりやすく知る手だてとして過去、数百年来にわたる日興門下の興門派・富士門流八本山の分裂抗争と覇権紛争を繰り返してきた歴史を知る必要がある。

この興門派八本山の中の富士大石寺・保田妙本寺・小泉久遠寺・京都要法寺・北山本門寺・西山本門寺のそれぞれが、日興門下(興門派・富士門流)の盟主・総本山たらんとして、開創の古より近代にいたる数百年の長きにわたって醜悪な権力紛争・覇権紛争を繰り広げ、この中から「戒壇の大本尊」や「二箇相承」「百六箇抄」といったものが謀作されて出現してきたのである。

1290年(正応3年)身延山久遠寺を離山した二祖日興が大檀那の地頭・南条時光の領地に開創したのが今の大石寺。現在の日蓮正宗総本山である。大石寺は日興・日目没後、約七十数年にわたって蓮蔵坊相続問題で大石寺4世日道と保田妙本寺開祖日郷との間に紛争が起こり、疲弊衰退の一途をたどっていた。この大石寺が隆盛するきっかけは、大石寺9世日有が登座してからのことだ。名だたる重宝などほとんどなかった大石寺に、宝蔵ができて、「戒壇の大本尊」なる板本尊が突如として、大石寺宝蔵に出現したのも、大石寺9世日有の代のことである。

大石寺9世日有は他にも板本尊を数体造立しているが、あの金ピカで黒漆(うるし)で黒光りした「戒壇の大本尊」なる板本尊を以て、他の七本山のみならず身延山久遠寺までをも圧倒せんとしようとした。大石寺9世日有は、甲州・湯之奥金山の金の利権を手に入れ、大石寺周辺の土地を開墾して領地を広げ、客殿や御宝蔵などの寺院伽藍を整備し、信者を増加せしめ、経済力をつけていった。

9世日有4(諸記録)
 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)

 北山本門寺39仁王門

(北山本門寺・仁王門)

 

 

これに対して、二祖日興が晩年、弟子僧侶の育成のための重須談所として建立したのが、大石寺から東へほんの数キロのところにある、今の北山本門寺である。日興はこの北山本門寺で入滅しており、日興の正墓もこの北山本門寺にある。北山本門寺も当初は大石寺とは親密であったのだが、大石寺9世法主日有が「戒壇の大本尊」を偽造したころから大石寺と仲が悪くなり、大石寺と小泉久遠寺との間で血脈論争がおこると、小泉久遠寺側に味方して大石寺と離反した。

その紛争の中で、北山本門寺は日蓮の名前を騙って「大日本国、富士山、本門寺根源、日蓮在御判」なる『本門寺額』や二箇相承・大石寺本の流転本・改訂版の二箇相承「重須本」秘かに謀作。用意万端の手筈を整えて時の駿河国の国主今川氏に迎合して「富士山本門寺」の山号・寺号を今川家から下賜されることに成功。かくて北山本門寺が興門派の盟主・主導権を握ろうとした。

1333年(元弘3年)日目の天奏上洛に従ってそのまま京都に入った弟子の日尊が開創したのが上行院。これは現在、日蓮本宗本山を名乗っている要法寺で、人材や財力が豊富で、京都という地の利もあり、興門派八本山の中では優位に立っていた。京都・要法寺では、室町時代後期に大学匠・第13祖貫首・広蔵院日辰が出て「造仏読誦」の要法寺教学を振興。この日辰教学は江戸時代中頃までつづいた。ところが要法寺門流は、大石寺26世日寛の「日寛教学」と衝突。大石寺と要法寺は、曼荼羅正意か造仏読誦かで論争するが、要法寺は18世紀に入って本尊・化儀を大石寺流に改変してしまう。本山寺院が本尊・化儀を改変してしまうというのは一大事だが、要法寺は、日興が日蓮から相承したと詐称する「称徳符法の本尊」等を次々と偽造・謀作して、ここも日蓮・日興以来の血脈の正統を主張して富士各本山との通用し、他の七本山を圧倒しようとした。

日目の美濃垂井の遷化後、大石寺に帰った弟子の日郷が、大石寺留守居だった4世日道と蓮蔵坊の相承紛争で大石寺を追放され、千葉県保田に開創したのが保田妙本寺で、その妙本寺の出張所として開創されたのが富士宮市小泉の小泉久遠寺。

大石寺4世日道と相承問題で対立した日郷は、日蓮真筆の「万年救護の御本尊」や日蓮御影像を保田妙本寺に蔵して、保田妙本寺や小泉久遠寺では「日目上人から正統に相承したのは日郷上人だ」とて、血脈正統を主張した。大石寺と小泉久遠寺・保田妙本寺など日郷門流との血脈論争による反目は数百年にもわたり、現在、小泉久遠寺は日蓮宗の寺となり、保田妙本寺も一時的に日蓮正宗大石寺と帰一していたが、今は日蓮正宗から離脱し単立寺院となっている。

こうした信仰など全く度外視した醜悪な権力紛争・覇権紛争が繰り広げられ、それぞれの寺が唯一正統を騙らんとして、様々なものが謀作されてきた。しかし信仰とは、本来、教えに対してするものであって、日蓮真筆本尊だの、板本尊だの、血脈だのという、いわば宗教的「権威」は、本来は宗教とか信仰といったものとは無関係のものではないだろうか。 

二箇相承3
 

(1970年刊『仏教哲学大辞典』に載っている『二箇相承』