□思わず写真と見間違えてしまうような見事な写実主義の風景画、人物画に深く感銘

 

先日、東京八重洲のブリヂストン美術館で、「都市の印象派、日本初の回顧展・カイユボット展」を見学・鑑賞してきました。

ブリヂストン美術館とは、公益財団法人石橋財団が運営する西洋美術、日本近代美術を中心とした私立美術館。ブリヂストンの創業者・石橋正二郎の収集した美術品を展示する美術館として、1952年、東京・京橋のブリヂストンビル内に開館したもの。

「カイユボット展を鑑賞」と書くと、「カイユボットって、何ですか」という人が大半ではないだろうか。カイユボットとは、ギュスターヴ・カイユボット(1848 1894)のことで、フランスの画家。印象派絵画の収集家。

ギュスターヴ・カイユボット(1848 - 1894)は、パリの裕福な実業家の家に生まれ、法律学校を卒業後、画家を志す。1873年にパリ国立美術学校に入学。1876年の第2回印象派展に出品し、以後、5回にわたって中心メンバーとして活躍。画家たちの意見調整をはかり、会場の手配や資金援助、友人たちの作品を購入することで経済的な支援を続ける。カイユボットが収集した良質の作品群が国家に遺贈され、今ではパリのオルセー美術館の重要なコレクションとなった。

平たく言えば、19世紀後半のフランスの画家。ブリヂストン美術館等のカイユボットの履歴には、「印象派」という言葉が登場する。印象派とは、19世紀後半のフランスに発した、絵画を中心とした芸術運動のこと。印象派の登場当初は、貴族や富豪らのパトロンを持たぬ画家の作品ということもあり、画壇での注目は低かったが、絵画市場や投機家によるもっぱら、経済絵画として扱われ始め、その後、世界の画壇を席捲するようになったもの。

私が、西洋の画家が描いた絵画で、最も感銘するのは、人物画、風景画を正確に描く絵画である写実主義である。西洋の写実主義の絵画を鑑賞すると、いつも感銘を深くします。「あれ。これは写真なのかな」と、思わず写真と見間違えてしまうような見事な風景画、人物画が、いわゆる写実主義の絵画。カイユボット展でも、写真と見間違えてしまう見事な風景画、人物画がズラリと並ぶ。

遠くから鑑賞していると「写真かな?」と思い、近づいて鑑賞してみると、コテコテの絵の具で描かれた、完全な絵画。「やっぱり絵だな」と思う。中年女性の人物画の白髪が、美術館の蛍光灯に照らされて、光っていて、本物の白髪のように見える。「あれえ」と思って、近づいてよく観察してみると、白色の絵の具に蛍光灯の光が反射しているだけ。「光の反射まで計算に入れて描いたのかな」と思ってしまった。「室内で読む女性」の絵を、少し離れて鑑賞すると、女性が手にする書類が、本物の紙の書類に見える。しかし近づいて見てみると、やはり絵の具で描かれた絵画。場内に展示されている絵画を、ひとつひとつ、くまなく鑑賞したが、まさに感銘の連続である。

過去にも国立西洋美術館や、他の美術館で、何度も見事な写実主義の絵画を鑑賞して、そのたびに感銘を深くした。「また鑑賞したいな」と思っていたところ、今回の「カイユボット展」がブリヂストン美術館であったので、足を運んだら、また感銘。やはり、来て良かったですねえ。

 

 

□創価学会、顕正会、日蓮正宗等「日蓮正宗系」カルト宗教と芸術活動は両立しない

 

こういう西洋美術の絵画は、もちろん芸術活動のひとつであることに違いないが、以前に創価学会、顕正会、日蓮正宗等の「日蓮正宗系」カルト宗教と芸術活動は両立しない、という主旨のことを書いたことがある。こういうことを書くと、「役者、お笑いタレント、コメディアン、歌手、バンドマン等々に創価学会の信者がいるではないか」という反論が来る。確かに昨今、インターネット上で検索すると、創価学会員の芸能人、法華講員の芸能人の名前がズラリと登場する。確かに役者、お笑いタレント、歌手等々も芸術の一翼を担っていることに違いはないが、私が言っているのは、例えば文芸だったら作家、美術だったら画家、彫刻家、音楽だったら作詞家、作曲家、編曲家、映像だったら監督、脚本家、舞台だったら舞台監督、演出家といった芸術文化を発信する人、創作活動をする人のことである。

こう言うと「阿部日顕、池田大作、浅井昭衛が作詞した歌がある」「俳句がある」「短歌がある」「池田大作は小説『人間革命』を書いている」という反論が来るが、日顕が造った歌を歌っている人は、日蓮正宗の僧侶と信徒ぐらいなものではないか。池田大作の小説「人間革命」を喜んで買っている人は創価学会員ぐらいなものだろう。世間一般の人が日顕の作った歌を歌っていたとか、池田大作が造った小説を買って読んでいたとか、そんなことをしていたとは、全く聞いたことがない。

私が言っているのは、日蓮正宗や創価学会など、カルト宗教の中だけに定着しているものを指しているのではなく、広く世間一般の人に流布した文化のことを言っているのである。

芸術というのは、「共感」ですから、独善的な思想や信仰に凝り固まったり、「オレのほうが一般の人より偉いのだ」という間違った思想に凝り固まった人に、広く世間一般の人の共感を呼び起こす芸術の創作活動は、できないと思うのだが、どうだろうか。「オレは偉いのだ」と言っている人に、心から共感する人など、世間のどこにいるだろうか。少なくとも私は、「オレは偉いのだ」と威張っている人が、広く世間一般の人の共感を呼び起こす芸術の創作活動をやっている人を、いまだ見聞したことがない。阿部日顕、池田大作、浅井昭衛が造った歌や小説、俳句、短歌等といったものは、広く世間一般の人の共感を呼び起こす芸術には入らない。

もちろん、19世紀後半のフランスの印象派画家・カイユボットは、どこぞのカルト宗教の信者でもなければ、独善的思想に凝り固まった人でもない。だからフランスをはじめ、一般の人に共感を涌き興すことができたのではないかと思う。

そういえば、かつて創価学会員として、池田大作の独善思想に凝り固まっていた富士門流執着軍団の自称「書記長」を名乗る者が、やれ「役者のおちこぼれ」だの何だのと、ふんぞりかえって、知ったかふりをして、誹謗中傷しているという話しを見聞した。他を「おちこぼれ」などと見下すなら、自分は広く世間一般の共感を涌き興す芸術の創作活動をやっているんですかね。「やれる」というなら、ぜひやっていただきたいものだが、「オレは偉い」だの「あいつは、おちこぼれ」だのと威張っている自称「書記長」に、広く世間一般の共感を涌き興す芸術の創作活動なんて、無理だと思われるが、どうだろうか。

ブリヂストン美3


特別展3


特別展2