■検証3・昔から多方面から公開を要求されている大石寺の「戒壇の大本尊」

 

日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、昔から、ありとあらゆる多方面の人たちから公開を要求され続けてきているのである。その一端を紹介しよう。

 

「この板本尊は、日蓮正宗の信者以外には絶対的に見せない代物(しろもの)なのである。何故見せないのかと言えば、一般に公開すればその偽物であることが、すぐに判ってしまうからである」

「大石寺はこの板本尊をヒタ隠しに隠し続けているが、このことだけでも既に、その偽物たることを雄弁に物語っているではないか」

「本物ならば正々堂々と発表したらよいではないか。偽物であることは、本山の連中や学者等はよく知っているからこそ、偽物であることがバレるから、ヒタ隠しにかくさねばならないのである。日本国が日蓮聖人の教を国教とする時にかかげるマンダラだから、それまでは一般に公然と発表しないというのは、実におかしな話しで、彼等の逃げ口上に過ぎない。

大聖人の御真筆のマンダラを格護している寺々は、進んで御本尊の写真の撮影に協力し、広く世に出ることを願っている。先年、千葉市の立正安国会から御本尊集(コロタイプで123)が発表されたが、これにも載せられなかったのは、大石寺関係のものであることを見ても、大石寺が如何に偽物のバレることを怖れているかが窺えよう」

(安永弁哲著『板本尊偽作論』p121122)

板本尊偽作論本1


板本尊偽作論本2
 



「大石寺では板本尊の秘密を守るために汲々として部外者には見せもしなければ写真もとらせない。…現在、大石寺以外の真筆の本尊御書がすべて写真に撮られ、発表されたから筆跡鑑定ができる。大石寺ではそれがこわいのである」

(窪田哲城著『日蓮聖人の本懐』p100)

「板本尊を白日のもとに公開することだ。そしてあらゆる方面から科学的に研究して偽物でない事を立証すべき義務が大石寺にあるのではないか。」(窪田哲城著『日蓮聖人の本懐』p105)

「ぜひ板本尊を公開するよう大石寺当局に提案する。…板本尊をかくすのが隠密でなかったら、つまりニセモノでなかったら堂々と公開したらよい」

「いま日蓮聖人の正確なご真筆は御本尊百二十三体、御書のぜんぶが写真に写され公開されている。ひとり大石寺の板本尊だけは、明治期に写された不明瞭な写真以外公開されていない。ニセモノでないと断言するなら公開せよ。まさか公開したり写真撮影すると、御利益がなくなるわけのものでもあるまい。偽筆がばれるのがこわいのである」

(窪田哲城著『日蓮聖人の本懐』p198199)

日蓮聖人の本懐2

 


「ならば私は彼らに問う。戒壇の大本尊を科学鑑定することができるか、と」

「もし日蓮正宗や創価学会が、それにもかかわらず戒壇の大本尊なる板本尊が本物であると言い張るなら、最後に残された手段はただ一つ。戒壇の大本尊なる板本尊を、今すぐ、科学鑑定してみることである。もし本物であると証明されたら、全国に5000ヶ寺もあるといわれる日蓮宗すらも、日蓮正宗の門下にくだるであろう。創価学会などものの数ではない。科学鑑定にはそういう意味も含まれる。科学鑑定をぜひやっていただきたい」

(美濃周人著『虚構の大教団』p107)

「虚構の大教団」1
 

このように古くから、日蓮正宗に対して、大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊を公開し、科学鑑定せよとの要求が出されてきているのである。

日蓮正宗は、「戒壇の大本尊」なる板本尊が本物であるというなら、堂々と公開すべきである。そして科学鑑定をすべきである。

とは言っても、日蓮正宗が「戒壇の大本尊」なる板本尊を公開などするはずがないのである。なぜそれをしないのか。それは安永弁哲氏や窪田哲城氏が言うように、ニセモノであることがバレるからである。