■検証261・鎌倉時代・小氷期の極寒地獄の身延山に自生の楠木はなかった11

 

物理学の世界的な権威のある学者の「鎌倉期小氷期説」を「素人の疑難」と誹謗する「慧妙」

 

日蓮正宗謀略機関紙『慧妙』は、鎌倉時代の日本が「小氷期」であることを、躍起になって否定しようとしている。鎌倉時代の日本が「小氷期」であることを認めてしまうと、鎌倉時代の身延山には、枯木の楠木しかなかったことがあきらかになり、そうなると日蓮は楠木を素材にした「戒壇の大本尊」なる板本尊は造立できなかったことが明白になる。

だから「慧妙」は「(小氷期説は)所詮は素人の“ためにする”疑難にすぎず」などと見出しを付けて、「鎌倉時代小氷期説」を否定しようとする。しかし鎌倉時代の日本が小氷期であると最初に言ったのは、日本の宇宙物理学者。太陽物理学、高エネルギー宇宙物理学の世界的な権威で、早稲田大学理工学部総合研究センター客員顧問研究員。神奈川大学名誉教授。ユトレヒト大学、インド・ターター基礎科学研究所、中国科学院の客員教授、理学博士の桜井邦朋氏。「桜井邦朋」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E4%BA%95%E9%82%A6%E6%9C%8B

桜井邦朋氏が鎌倉時代の日本が小氷期であったとする説を唱えた「太陽黒点が語る文明史 「小氷河期」と近代の成立」という本は、桜井邦朋氏が19877月に書き上げた著書である。

そういう世界的な宇宙物理学、太陽物理学、高エネルギー宇宙物理学の世界的な権威のある学者である桜井邦朋氏の「鎌倉期・小氷期説」を、日蓮正宗謀略機関紙『慧妙』は「所詮は素人の“ためにする”疑難にすぎず」などと誹謗中傷するのだから、こちらが驚いてしまう。「慧妙」はどういう資格があって、世界的な宇宙物理学、太陽物理学、高エネルギー宇宙物理学の世界的な権威のある学者である桜井邦朋氏の「鎌倉期・小氷期説」を、「素人の疑難」と誹謗中傷できるのか。世界的な宇宙物理学、太陽物理学、高エネルギー宇宙物理学の世界的な権威のある学者が「素人」であるはずが絶対にない。永年にわたって物理学者としての業績を積み重ねてこられた方であるからこそ、宇宙物理学、太陽物理学、高エネルギー宇宙物理学の世界的な権威と称されるわけである。では「慧妙」は、桜井邦朋氏の「鎌倉期・小氷期説」を、「素人の疑難」と誹謗中傷できるほどの物理学の業績をどれだけ積んできているというのか。日蓮正宗謀略機関紙『慧妙』は、後世の偽作本尊である「戒壇の大本尊」や偽書「二箇相承」を日蓮真造などとデタラメを言って、日蓮正宗の信者を騙す業績は山のように積み重ねてきているが、真面目な物理学の業績など、皆無ではないか。「慧妙よ、うぬぼれるのもいい加減にしろ」と厳しく断罪されてしかるべき話しであろう。桜井邦朋氏の「鎌倉期・小氷期説」を、「素人の疑難」と誹謗中傷する日蓮正宗謀略機関紙『慧妙』は、桜井邦朋氏に頭を下げて謝罪すべきであろう。

 

 

□鎌倉時代の身延山が「小氷期」だったことを裏付ける日蓮遺文について反論不能の「慧妙」

 

「アンチ日蓮正宗」では、日本の学者の説でも12001900年 の約700年間を「 鎌倉・江戸小氷期」という、いわば小氷河期に位置づけているが、これを裏付ける記述が、日蓮の遺文(御書)にある、ということを指摘しているが、これについて日蓮正宗謀略機関紙『慧妙』は、いまだに反論しておらず沈黙したままである。

□戒壇大本尊は後世の偽作だ(22)~鎌倉時代の身延山が「小氷期」だったことを裏付ける日蓮の遺文(御書)の文http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/3635792.html

□戒壇大本尊は後世の偽作だ(23)~鎌倉時代の身延山が「小氷期」だったことを裏付ける日蓮の遺文(御書)の文2http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/3636388.html

鎌倉時代の日本が「小氷期」だったことを裏付ける日蓮遺文(御書)の文とは、以下の文である。

日蓮57才の時に書いた「兵衛志殿御返事」(弘安元年1129)では

「雪かたくなる事金剛のごとし。今に消ゆる事なし。昼も夜も寒く冷たく候事、法にすぎて候。酒は凍りて石のごとし。油は金に似たり。鍋・釜に小水あれば凍りて割れ、寒いよいよ重なり候へば、着物うすく、食乏しくして、さしいづるものもなし」・・・・(御書全集p1294)

「坊は半作にて、風、雪たまらず、敷物はなし。木はさしいづるものもなければ火もたかず。古き垢づきなんどして候、小袖一つ着たるものは、其の身の色、紅蓮・大紅蓮のごとし。声は波々大波々地獄にことならず。手足寒じて切れさけ人死ぬことかぎりなし」 (御書全集p1295)

さらに日蓮58才の時には「上野殿御返事」(弘安21227)の中で次のように述べている。

「・・・五尺の雪ふりて本よりも通わぬ山道ふさがり、訪いくる人もなし。衣も薄くて寒ふせぎがたし。食たへて命すでに終はりなんとす・・・」(御書全集p1437)

 

日蓮の草庵跡がある身延山の西谷は、現在、「五尺の雪」どころか、降雪そのものがあることは、非常にまれである。五尺とは、約1メートル50センチにもなり、こんな大雪は、今では新潟、東北、北海道の豪雪地帯の山間部にでもいかないと、あり得ない大雪である。もちろん、今の身延山の西谷に、こんな豪雪が降ることはない。身延町教育委員会職員の証言によれば、今の身延町・身延山久遠寺の西谷に50センチの降雪があることは、めったにないという。約1メートル50センチの積雪というのは、どれくらいの積雪なのか、見たことがない人も多いと思うので、私が真冬の新潟県越後湯沢市で撮影した1メートル50センチ級の豪雪の写真をここにお見せしよう。

雪の上越線1


雪の北北線70


雪の北北線79


雪の北北線85
 

ちなみに新潟県越後湯沢市には居酒屋「楠木」はあるが、木材の楠木は存在しない。

また日蓮は、低温ぶりを「紅蓮地獄か、大紅蓮地獄のようだ」と言い、「手足寒じて切れさけ人死ぬ」とは、凍傷による死傷のことと思われる。凍傷による死傷は、状況にも依るが、氷点下のかなり低い気温であったのではないかと推定される。今の身延山の冬で、凍傷による死傷者が出たとは、聞いたことがない。したがって、これらの日蓮の遺文(御書)の文は、学者の説である、12001900年 の約700年間が「鎌倉・江戸小氷期」だったこと。なかんずく鎌倉時代の身延山がまさに「鎌倉・江戸小氷期」だったことを裏付けるものではないか。