■検証264・鎌倉時代・小氷期の極寒地獄の身延山に自生の楠木はなかった14

 

身延町文化財指定の本遠寺大楠木は日蓮在世の時代から自生している証明ではない

 

山梨県身延町の日蓮宗寺院・大野山本遠寺の楠木に関しては、大野山本遠寺そのものが、徳川家康の側室だったお万の方の菩提のために創建された寺院であり、そこに人工植樹された楠木の大木が一本あるだけである。 これ以外にここに楠木はない。「アンチ日蓮正宗」の調査で、判明したことである。当の大野山本遠寺の住職も、そのように証言している。この大野山本遠寺の楠木が植樹されたのは徳川家康の時代。今から約四百年前のことで、日蓮在世の七百年前などではない。四百年前に創建された寺に千二、三百年前からの古い楠木が沢山あるわけがない。

それから、大野山本遠寺の大楠木が身延町の文化財(天然記念物)に指定されていることを以て、日蓮正宗は、あたかも日蓮在世の時代から自生の楠木が繁茂していた証拠であるかのように言っているが、これは自生の楠木であるという証明なのではない。

天然記念物(てんねんきねんぶつ)とは、動物、植物、地質・鉱物、天然保護区域などで、学術上価値の高いものとして国または地方自治体が指定したもので、動物の場合は生息地、繁殖地、渡来地を、植物の場合は自生地を、鉱物の場合は特異な自然現象を生じている土地を含めて指定される。ただし、これらの中には、長い歴史を通じて人工植林・植樹・造園などの文化的な活動により作り出された二次的な自然も含まれる。つまり寺院の創建にあたって植樹した木であっても、数百年の間、生い茂っていれば、それは「二次的な自然」ということで、天然記念物に指定されることもあるということである。

それから大野山本遠寺の大楠木が身延町の文化財(天然記念物)に指定されている件に関して、身延町教育委員会の担当者に直接取材したところ、身延町の樹木の文化財(天然記念物)指定にあたっては、年輪やいつから繁茂しているかといったことは勘案されていないのだという。 樹木の年輪を測定してから…というのでは、現実問題として無理であり、樹木の文化財(天然記念物)指定は、年輪や歴史よりも、その樹木そのものの地域の中での存在感とか、地域の人々に与える影響力とか、地域の人々との繋がりなどといった点が考慮されてのことだというのである。

したがって、大野山本遠寺の大楠木が身延町の文化財(天然記念物)に指定されているからといって、そのこと自体が、日蓮が生きていた時代から生い茂っていたという証明でもなければ、日蓮が生きていた時代から自生していたという証明でもない。

したがって、大野山本遠寺が江戸時代初期に創建されたことを考え合わせれば、ここの大楠木は鎌倉時代から自生していたものではなく、室町時代以降において、植樹されたものであることが明らかなのである。つまり大野山本遠寺の大楠木は、日蓮が生きていた時代から存在していたものではなく、もちろん日蓮とは何の関係もない巨木なのである。

 

 

12001900年 の約700年間は日本ないし北半球は「鎌倉・江戸小氷期」だった

 

12001900年くらいの約700年間、日本をはじめとする北半球は、「鎌倉・江戸小氷期」と呼ばれる寒冷期だったのであり、身延山周辺は、楠木の自生地域からは完全にはずれていた。

中世の小氷期の研究は、ずいぶん前から日本、中国、アメリカ、ヨーロッパ等の気候学者・歴史学者等々の中で行われてきており、さまざまな著書や論文等で一般に発表されている。

「太陽黒点が語る文明史・小氷河期と近代の成立」の著者・桜井邦明氏は、13世紀以降、日本が小氷期に入っていたという説を唱えている。

特に中国の学者が12世紀から17世紀ころまで、現在の気温に比べてセ氏2度低くなっている小氷期説を唱えていること。さらに日本の学者も13世紀に入ると日本付近における気温の低下が始まっている小氷期説を唱えていることは注目に値する。

つまり日蓮(12221282)在世の鎌倉時代からすでに日本の気温低下が起こっており、日蓮在世の鎌倉時代の日本は、すでに小氷期で、現在の平均気温よりセ氏12度低くなっていた、ということである。地球温暖化の今ですら自生の楠木がない身延山に、「小氷期」だった時代、自生の楠木が存在しなかったことは、明白である。少なくとも、久遠寺祖師堂前の楠木は、1875(明治8)110日の大火災以降において、植林されたことが明らかである。よって久遠寺祖師堂前の楠木は、身延山の小氷期に耐えて生き残ってきたわけではないのである。

また日蓮の遺文(御書)の記述が、鎌倉時代の日本が「小氷期」だったことを裏付けている。

日蓮57才の時に書いた「兵衛志殿御返事」(弘安元年1129)では

「雪かたくなる事金剛のごとし。今に消ゆる事なし。昼も夜も寒く冷たく候事、法にすぎて候。酒は凍りて石のごとし。油は金に似たり。鍋・釜に小水あれば凍りて割れ、寒いよいよ重なり候へば、着物うすく、食乏しくして、さしいづるものもなし」・・・・(御書全集p1294)

「坊は半作にて、風、雪たまらず、敷物はなし。木はさしいづるものもなければ火もたかず。古き垢づきなんどして候、小袖一つ着たるものは、其の身の色、紅蓮・大紅蓮のごとし。声は波々大波々地獄にことならず。手足寒じて切れさけ人死ぬことかぎりなし」 (御書全集p1295)

さらに日蓮58才の時には「上野殿御返事」(弘安21227)の中で次のように述べている。

「・・・五尺の雪ふりて本よりも通わぬ山道ふさがり、訪いくる人もなし。衣も薄くて寒ふせぎがたし。食たへて命すでに終はりなんとす・・・」(御書全集p1437)

五尺とは、約1メートル50センチにもなり、こんな大雪は、今では新潟、東北、北海道の豪雪地帯の山間部にでもいかないと、あり得ない大雪である。また日蓮は、低温ぶりを「紅蓮地獄か、大紅蓮地獄のようだ」と言い、「手足寒じて切れさけ人死ぬ」とは、凍傷による死傷のことと思われる。凍傷による死傷は、状況にも依るが、氷点下のかなり低い気温であったのではないかと推定される。したがって、これらの日蓮の遺文(御書)の文は、学者の説である、12001900年 の約700年間が「鎌倉・江戸小氷期」だったこと。なかんずく鎌倉時代の身延山がまさに「鎌倉・江戸小氷期」だったことを裏付けるものではないか。

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