■検証12・百六箇抄が偽書である証拠・日蓮日興相承の大ウソ6
□大石寺二祖日興は「本門弘通の大導師」「身延山久遠寺惣貫首」ではなかった1
日蓮が日興に相伝したと日蓮正宗が自称する「百六箇抄」によれば、
「但し直授結要付属は一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て惣貫首と為して、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず、悉く付属せしめ畢ぬ。 上首已下並に末弟等異論無く、尽未来際に至るまで予が存日の如く、日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐべき者なり。」(大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』1巻p20~21)
として、日興は「惣貫首」に任命されたことになっている。あるいは、富士門流八本山のひとつである京都要法寺第13祖貫首・広蔵院日辰が書写した日蓮一期弘法付嘱書(身延相承書)や身延山附属書(池上相承書)によれば、日興は日蓮によって「本門弘通の大導師たるべきなり」「身延山久遠寺の別当たるべきなり」と「本門弘通の大導師」「身延山久遠寺別当」に任命されたことになっている。しかしながら、日蓮入滅後、日興が「惣貫首」「本門弘通の大導師」「身延山久遠寺別当」になったという形跡はどこにもないのである。日興自身が筆録した「宗祖御遷化記録」を順に拾ってみよう。出典は日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が編纂した『富士宗学要集』第8巻・資料類聚①のp2以下、日蓮正宗が編纂した『平成新編・日蓮大聖人御書』p1863以下である。
「先火 二郎三郎
次大宝華 四郎次郎
次幡 左 四条左衛門尉
右 衛門太夫
次香 富木五郎入道
次鐘 大田左衛門入道
次散華 南条七郎次郎
次御経 大学亮
次文机 富田四郎太郎
次仏 大学三郎
次御はきもの 源内三郎
次御棺 御輿なり
侍従公
左 治部公
下野公
蓮華阿闍梨
前陣 大国阿闍梨
出羽公
和泉公
右 但馬公
卿 公
信乃公
伊賀公
左 摂津公
白蓮阿闍梨
後陣 弁阿闍梨
丹波公
大夫公
右 筑前公
帥 公
次天蓋 大田三郎左衛門尉
次御太刀 兵衛志
次御腹巻 椎地四郎
次御馬 亀王童
滝王童 」
(日興筆「宗祖御遷化記録」より)
日蓮は1282(弘安5)年10月13日に池上邸で安祥として入滅したのであるが、翌14日には入棺および葬送の儀式が執り行われている。同じく御遷化記録によれば、その14日には、主だった僧侶、信者がすべて池上邸に集合しているのがわかる。当時の状況からして「日蓮危篤」の報が、すでにその何日も前から各地の僧侶・信徒に伝えられていたためと思われる。
1282(弘安5)年10月14日の日蓮葬送の儀式がどのようなものであったか。日興が筆録した御遷化記録をもとにしてみると、当日の日蓮葬送の儀を執り行ったのは、日興ではなく、大導師・日昭と副導師・日朗なのである。
(1936年(昭和11年)堀日亨編纂『富士宗学要集』に載っている「百六箇抄」)
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