■検証19・百六箇抄が偽書である証拠・日蓮日興相承の大ウソ13

 

□身延山久遠寺二祖貫首が決定したのは1288(正応元年)「日蓮七回忌」の年である

 

史実を徹底検証していくならば、「百六箇抄」の

「但し直授結要付属は一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て惣貫首と為して、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず、悉く付属せしめ畢ぬ。上首已下並に末弟等異論無く、尽未来際に至るまで予が存日の如く、日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐべき者なり」

の文が、史実に全く反していることが明らかになる。もし本当に日興が日蓮から血脈付法の「惣貫首」であると指名されたならば、

1 「定」の序列を「不次第」とする必要はなく最上位に置かねばならないはずである。にもかかわらず、それがなされていない。

2 日蓮の葬送の列で、日興が大導師を勤めていたはずであり、大導師・日昭と副導師・日朗で日蓮葬送の儀を執り行うはずがない。

3 学頭・日向と地頭・波木井実長が四箇の謗法を犯したからといって、日興が身延離山するはずがない。日興が「惣貫首」なら、身延山久遠寺から出て行かなくてはならないのは、「貫首」であったはずの日興ではなく、「学頭」の佐渡阿闍梨日向のほうである。

これで明らかである。日蓮の思想・教義の中に、「惣貫首」「貫首」というものは存在しない。日蓮は自らが書き残した遺文(御書)の中で、「惣貫首」「貫首」という単語をどこにも使っていない。日蓮は「貫首」思想というものを持っていなかった。したがって「百六箇抄」の

「但し直授結要付属は一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て惣貫首と為して、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず、悉く付属せしめ畢ぬ。上首已下並に末弟等異論無く、尽未来際に至るまで予が存日の如く、日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐべき者なり」

の文は、全く史実に反しているということになり、したがってこの文も「百六箇抄」が後世の偽作である証拠ということになるのである。

日蓮滅後の身延山は、輪番給仕によって成り立っていたが、日昭は鎌倉浜土の妙法華寺、日朗は鎌倉比企ヶ谷の妙本寺、日興は身延山林蔵坊、日向は藻原の妙光寺(藻原寺)、日頂は真間・弘法寺、日持は松野・永精寺に、それぞれ居を構えて布教活動を行っていた。

尚、身延山には、各宿坊に月番が置かれていた。

日昭 南之坊不軽院  日朗 竹之坊正法院  日興 林蔵坊常在院

日向 樋沢坊安立院  日頂 山本坊本国院  日持 窪之坊本応院

日蓮の遺骨が遺命によって身延山久遠寺に送られ、西谷の地に遺骨が葬られて日蓮の正墓が築かれた。これが今の御廟所の墓塔であり、これを守護する順番が弟子たちによって決められた。六老僧をはじめとする弟子たちは、各地で布教をしていたので、交替で身延山に登山参詣し、日蓮の墓塔に仕える「守塔輪番制」が決められた。

 

 

正月 弁阿闍梨(日昭) 二月 大国阿闍梨(日朗) 三月 越前公 淡路公(日賢) 

四月 伊予公(日頂) 五月 蓮華阿闍梨(日持) 六月 越後公(日弁) 下野公(日秀)

七月 伊賀公 筑前公 八月 治部公(日位) 和泉公(日法) 九月 白蓮阿闍梨(日興) 

十月 但馬公 卿公(日目) 十一月 佐渡公(日向) 十二月 丹波公(日秀) 寂日坊(日華)

(西山本門寺蔵「御遷化記録」)

六老僧はそれぞれ一ヶ月ずつ。他の六ヶ月は12名の中老僧と六老僧につづく高弟が二人で一ヶ月ずつ身延山の日蓮墓塔を守護することに決まった。この中に日興の弟子が数人入っているのは、身延山にほど近い駿河地方を布教拠点としていたからだと考えられる。

しかしながら身延山で丸一ヶ月の奉仕を続けるためには、当時の交通事情からして、かなりの日数と労力、費用を要することになる。鎌倉に布教拠点を置く日昭や日朗は、身延山まで片道五日、往復十日を費やす。藻原の日向や真間の日頂はさらに多くの日数を費やすことになる。

これにより各地の布教活動に影響が出て、信者の動揺も出てきたことから、日蓮三回忌のころには、輪番制の実行が難しくなってきていた。そこで輪番奉仕が現実になされていないことが六老僧・十二老僧の間で問題になり、六老僧の日向が身延山に登山して身延山樋沢坊に常住。日向は学頭職として、日興・日向が身延山に常住するようになった。ところが厳格な人柄の日興は、地頭の南部六郎実長と、何かと衝突することになる。

正応元年(1288)の日蓮七回忌にあたって、身延山久遠寺専任の住職を置いて、日蓮墓廟を守護することになった。南部実長の要請によって佐渡阿闍梨日向が身延山久遠寺の二祖として法灯を継承したのである。南部実長は、厳格な性格で何かと衝突していた白蓮阿闍梨日興を拒否し、佐渡阿闍梨日向を身延山久遠寺二祖として要請したのである。これにより1289(正応2)年春のころ、日興は身延山を離山して富士上野の南条家の館に移る。この年に下之坊を創建。翌年の1290(正応3)10月、富士大石寺を創建する。日興は、身延離山以前においては、身延山林蔵坊に居を構えていたが、それは日興の布教拠点である富士・駿河地方と近かったためで、身延山久遠寺の貫首だったわけではない。林蔵坊に居を構えていたことと、身延山久遠寺の貫首だったかどうかは全く意味が違う。日興以外の他の五老僧も、身延山久遠寺内に縁故の宿坊を持っていたが、布教拠点が身延山よりも遠距離だったために常住できなかったのである。それが輪番制の実行が難しくなり、輪番奉仕が現実になされていないことが、問題になった。これにより身延山久遠寺に専任の住職を置くことが六老僧の合議で決まり、南部実長の要請で日向が身延山に常住するようになった。そして正応元年(1288)の日蓮七回忌にあたって、日向が身延山久遠寺の二祖として法灯を継承した。日興が身延離山したのは、その翌年の正応2(1289)のことである。日興は、自分よりも僧階が下位の日向が身延山久遠寺二祖に登座したことにより、身延山を離山して富士に下り、大石寺を創建したのである。

百六箇抄1
 

(1936(昭和11)堀日亨編纂『富士宗学要集』に載っている「百六箇抄」)