■検証76大石寺9世法主日有が京都仏教寺院から輸入した化儀・六万坊思想2

 

□高野山の巨大宗教都市を模倣した大石寺9世日有は弘法大師空海の入定も知っていた

 

大石寺9世日有が弘法大師空海の入定を知っていたとする証拠は何か、それは今も伝わる大石寺9世日有の高徳を伝える「伝説」の中に、弘法大師空海の入定のほとんどパクリ話に等しい「日有入定伝説」がある。

「日有上人は文明十四年九月二十九日に御入滅の相を示されたが、遷化の後も御存生の如く他宗の人々をも御利益を与えんと考えていた。故に総本山の隣国に当たる甲州八ツ代郡大杉山に予て墓所を設けられていた。その所に深く穴を掘り、九月二十九日には尊体の生きたまま穴に入り、上から厚く土をかけて埋められた。これを御入定というのである。九月二十九日は御入定の日なので、彼の大杉山では大杉大明神の御祭礼(他門の者は上人を大杉大明神と崇拝し奉った)とて、自他門の人々が近郷近在より数百人参詣して無病息災を祈るのである」(大杉山略縁起)

「御入定」という言葉が、日蓮正宗の文献に出てくることから、「入定」(にゅうじょう)というのは、てっきり日蓮正宗の教義の中にあると勘違いしてしまいそうなのだが、実際は、日蓮正宗の教義などではなく、真言密教の究極的な修行のひとつなのである。入定とは、心を一カ所に安定させ、身(五体)・口(言語)・意(心)の三業(行為)を動揺させることなく、迷いの世界に落ち入ることもない悟りの境地に達することをいう。それから転じて、高僧の死を入定というようになった。

その入定の修行方法としては、まず、木食修行を行う。つまり火食・肉食を避け、木の実・草のみを食べる修行である。死後、腐敗しないよう肉体を整える。そして米や麦などの穀類の食を断ち、水や木の実などで命を繋ぐ。木の皮や木の実を食べることによって命をつなぎ、経を読んだり瞑想をする。脂肪が燃焼され、次に筋肉が糖として消費され、生きている間にミイラの状態に体を近づける。次に土中入定を行う。土中に石室を設け、僧がそこに入る。 そして竹筒で石室に空気穴を設け、完全に埋めてしまうのである。 僧は、石室の中で断食をしながら鐘を鳴らし読経するが、やがて音が聞こえなくなり、長い歳月と共にミイラとして姿を現すとされる。生きたまま箱に入りそれを土中に埋めさせ読経をしながら入定した例もあった。密教系の日本仏教の一部では、僧侶が土中の穴などに入って瞑想状態のまま絶命し、ミイラ化した物を「即身仏」(そくしんぶつ)と呼ぶ。仏教の修行の中でも最も過酷なものとして知られる。「入定」とは仏教の修行に名を借りたほとんど自殺か殺人に等しいものなのだが、「日有入定伝説」の真偽は別として、この「日有入定伝説」が存在すること自体、大石寺9世日有と高野山を関連付ける重要な証拠と言えよう。

 

 

□真言宗総本山・高野山金剛峯寺の巨大宗教都市をモデルにした大石寺9世日有の六万坊思想

 

高野山は、平安時代に京都の東寺との確執もあり、正暦5年(994年)には落雷による火災のため、ほとんどの建物を失い、僧はみな山を下りるという、衰亡の時期を迎えた。荒廃した高野山は、長和5年(1016年)頃から、祈親上人定誉によって再興され、治安3年(1023年)には藤原道長が参詣。平安末期には白河上皇、鳥羽上皇が相次いで参詣するなど、高野山は現世の浄土としての信仰を集めて栄え、寺領も増加した。源平の騒乱期には、高野山で出家する貴族や武士が目立つようになった。彼らは高野山に草庵を建てて住み、仏道に励んだ。また、北条政子が亡夫源頼朝のために建てた金剛三昧院のように、有力者による寺院建立もあり、最盛期には高野山に3,000もの堂舎が立ち並んだという。

戦国時代、武力を蓄えていた高野山は、比叡山焼き討ちや石山合戦を行った織田信長と対立するようになった。天正9年(1581年)、信長に謀反した荒木村重の家臣のうち数名が高野山に逃げ込み、信長は使者を送ってこれらの引き渡しを求めたが、高野山側は信長の使者を殺し要求にも応じなかったため、信長は日本各地にいた高野山の僧を数百名殺害し(1000人強とする説も)、さらに数万の軍勢で高野山攻めが行われた。しかし、ほどなく信長が本能寺の変に倒れたため、高野山は取り敢えず難を免れた。続く豊臣秀吉は、当初は高野山に寺領の返還を迫るなど圧力をかけたが、当時高野山にいた武士出身の僧・木食応其が仲介者となって豊臣秀吉に服従を誓ったため、石高は大幅に減らされたものの、高野山はなんとか存続することができた。

江戸時代に入ると、徳川将軍家が高野山を菩提所と定めたこともあり、全国の諸大名を始め多くの有力者が高野山に霊屋、墓碑、供養塔などを建立するようになった。全長2kmにわたる高野山の奥の院の参道沿いには今も無数の石塔が立ち並び、その中には著名人の墓碑や供養塔も多く並んでいる。こういう高野山の歴史を見ていくと、最も高野山が繁栄したのは、鎌倉時代から戦国時代以前の室町時代あたりだったと考えられる。そうすると日蓮正宗大石寺9世法主日有が京都天奏に旅立った1432(永享4)年ころは、まさに高野山の最盛期であり、三千を超える塔頭寺院が林立していたころと考えられる。中世の頃、高野山は日本最大級の巨大宗教都市だったのである。塔頭寺院だけで三千ということは、僧侶だけで高野山には少なくとも1万人以上が居たと考えられる。これだけ大規模な巨大宗教都市は、日本国内では高野山をおいて他になく、ここを訪れた大石寺9世日有は、たいそう衝撃的だったことだろう。大石寺9世日有が偽作した「百六箇抄」の中に出てくる「六万坊」の三文字には、「広宣流布の日には高野山の巨大宗教都市をはるかに超える六万坊を建立するのだ」と、高野山の巨大宗教都市に対抗する意図が読み取れる。

最盛期には塔頭寺院が三千を超えたという高野山の巨大宗教都市を全く見ずして、大石寺9世日有が「六万坊」の三文字を書くなどとは考えられない。即ち、大石寺9世日有は京都天奏の時等において、真言宗高野山に行ったことがあり、高野山を超える宗教都市をイメージして「六万坊」と書いたと考えられるのである。

高野山7

(グーグルマップの上空から見た高野山真言宗総本山金剛峯寺周辺)

高野山1
 

(高野山奥の院)